9月中旬 。
京都市下京区の東本願寺に参拝した後、東に5分ほど歩き、文子天満宮(あやこてんまんぐう)にもお参りしました。
文子天満宮は、天満宮となっているように学問の神さまの菅原道真を祀っています。
京都だと、菅原道真を祀る神社は、上京区の北野天満宮が最も有名ですが、ここ文子天満宮は、その北野天満宮の前身にあたる神社なのです。
菅原道真の託宣を受けた多治比の文子
文子天満宮は、京都駅から北東に徒歩約10分の場所に建っています。
文子天満宮の鳥居の前に到着。
外からでも、境内が広くないことがわかります。
鳥居をくぐって境内に入ると、正面に本殿が建っているので、お参りをしましょう。
境内の北側にも、小さな社殿があり、その左前に像があります。
この像は、多治比(たじひ)の文子が菅原道真の託宣を受けた時の様子を再現したものです。
多治比の文子は、菅原道真の乳母と伝えられています。
道真は、藤原時平の讒言により九州の太宰府に左遷され、彼の地で亡くなりました。
天慶5年(942年)7月。
西京七条に住む文子に「九州より都に帰りたいと思っているので、ゆかりの深い右近の馬場(現在の北野天満宮)に祠を構えよ」との道真の託宣が下ります。
しかし、文子には、そのような力がなかったため、住まいの前庭に小さな祠を建てて崇めることしかできませんでした。
その後、天暦元年(947年)にも、近江比良宮禰宜良種(ねぎよしたね)の子の太郎丸に託宣が下り、文子は、朝日寺の僧の最鎮、法儀、鎮世(ちんぜい)などと心をひとつにして崇めました。
北野天満宮の創建は天暦元年と伝えられており、天徳3年(959年)に藤原師輔(ふじわらのもろすけ)が、社殿を造り替え、宝物を奉納して、社殿や境内の整備を進めました。
文子天満宮が、北野天満宮の前身であると言われるのは、このような経緯があったからなんですね。
境内の様子
多治比の文子の像の後ろの社殿の右側には、白太夫社(しらたゆうしゃ)の小さな祠があります。
祭神は、渡会春彦(わたらいはるひこ)です。
菅原是善(すがわらのこれよし)は、世継ぎの誕生を伊勢神宮の渡会春彦に託して、豊受大神宮に祈願し、その後に道真が誕生しました。
以降、渡会春彦は、道真の守役として数十年に渡って尽くしてきました。
白太夫社は、子宝の神さまとして崇められています。
白太夫社の左隣の祠には、老松社(おいまつしゃ)、福部社(ふくべしゃ)、火之御子社(ひのみこしゃ)があります。
老松社は、島田忠臣(しまだただおみ)を祭神として祀っています。
忠臣は、道真に仕えていました。
道真が、大宰府で無実を天の神々に訴えるため天拝山に祀られた時、道真の笏(しゃく)を預かってお供したのが忠臣です。
後に道真が忠臣に松の種を持たせ、今の北野天満宮の地にまくように託したところ、道真の神霊がこの地に降臨した時、多くの松が一夜にして生じたと伝えられています。
そのため、老松社は、植林林業の神さまとされています。
福部社は、道真に仕えた十川能福(そがわのうふく)を祀っています。
火之御子社は、祭神として火雷神(いかづち)を祀り、雷除けや五穀豊穣のご利益があると伝えられています。
境内の南側には、文子託宣図が展示されています。
たくさんの絵画がありますが、どれも文子託宣図です。
それぞれに作者の個性が表れていましたよ。
本殿の裏には、菅原道真が大宰府に赴く途中に立ち寄り、腰かけたと伝えられている菅公腰掛石があります。
鳥居の近くに植えられているおがたまの木は、根元を見ると2本がつながっています。
相生(あいおい)の御神木と言われており、良縁や夫婦円満のご利益があります。
同じような御神木が、下鴨神社や松尾神社にもありますね。
相生の御神木の隣に祀られているのは、白瀧稲荷大明神です。
商売繁盛のご利益を授けてくれますよ。
文子天満宮は、小さな神社ではありますが、北野天満宮の前身となった由緒ある神社ですから、京都に観光で訪れたら、一度は参拝したいですね。
京都駅から近いので、京都旅行の最後にお参りをしていくと良いでしょう。
なお、文子天満宮の詳細については以下のページを参考にしてみてください。