京都市東山区には、三十三間堂というお寺があります。
この三十三間堂、実は平安時代に2つあったことをご存知でしょうか。
ひとつは、今現在も存在している正式には蓮華王院(れんげおういん)という三十三間堂です。
もうひとつは、得長寿院と呼ばれていた三十三間堂です。
今回の記事では、蓮華王院と得長寿院を比較しながら紹介したいと思います。
創建
得長寿院
創建されたのは、天承2年(1132年)です。
建立したのは平忠盛で、完成した建物は、鳥羽上皇に寄進されました。
蓮華王院
創建されたのは、長寛2年(1164年)です。
建立したのは平忠盛の子の清盛で、完成した建物は鳥羽上皇の子の後白河上皇に寄進されました。
場所
得長寿院
現在の京阪電車の神宮丸太町駅の東側の岡崎に建っていました。
平安神宮の近くですね。
今は、岡崎疏水沿いに得長寿院跡を示す石碑が立っています。
蓮華王院
神宮丸太町駅から南に4つ目の七条駅の東側一帯。
後白河上皇の住まいの法住寺殿内にありました。
倒壊・焼失
得長寿院
文治元年(1185年)7月に京都を襲った大地震で倒壊しました。
その後、再建はされていません。
蓮華王院
建長元年(1249年)に火災にあい焼失。
その後、後白河法皇を敬っていた後嵯峨上皇によって、文永3年(1266年)に再建されています。
運命とも思える並存期間
以上、簡単に得長寿院と蓮華王院を比較しました。
平忠盛が得長寿院を鳥羽上皇に寄進したのと同じように忠盛の子の清盛が、蓮華王院を後白河上皇に寄進したというのが興味深いですね。
また、2つの三十三間堂が並存した期間が1164年から1185年までというのも歴史的にみておもしろいです。
1164年は、保元の乱と平治の乱に勝利した清盛が、とんとん拍子に出世していった頃です。
このあたりから、平家の全盛期が始まったわけですね。
しかし、清盛の死後、平家は源氏との戦いに敗れ、壇ノ浦で滅亡し、海の藻屑となりました。
それが1185年3月のことです。
その約4ヵ月後、得長寿院が大地震で倒壊しました。
まるで、得長寿院が、平家滅亡を見届けた後に倒壊したかのようですね。
荒廃したこともあったが現在まで存続している蓮華王院
さて、蓮華王院ですが、こちらも過去に荒廃した時期がありました。
しかし、永享5年(1433年)に室町幕府が大規模な修理をするなどして、現在まで存続し、毎年成人の日には、新成人たちによる通し矢が行われています。
もしも、蓮華王院まで荒廃して、三十三間堂が無くなっていたら、こういった行事も催されていなかったんでしょうね。
なお、得長寿院跡の写真と地図については、京都市情報館というWEBサイトの下記ページに掲載されていますので、ご覧になってください。
また、蓮華王院の詳細については、下記ページを参考にしてみてください。