京都市中京区の御池通沿いに御所八幡宮という小さな神社が建っています。
ホテルギンモンド京都の東隣ですね。
あまりに狭い神社なので、町の人たちが地元の守り神として建てたのかと思ってしまいそうですが、実は、昔は広大な敷地を持っており、朝廷や源氏から崇敬されていた立派な神社だったんですよね。
足利家の衰退とともに規模が小さくなる
弘安元年(1278年)10月13日に二條内裏の焼失により、後宇多天皇が中院通成の三條坊門万里小路(までのこうじ)邸に行幸し、後に内裏となりました。
中院氏は村上源氏の一門で、源氏の氏神である石清水の若宮を邸内に勧請(かんじょう)していましたが、後宇多天皇もやがて崇敬するようになり、御所八幡宮と名付けられました。
南北朝時代になると、周辺の光景が戦乱で一変しましたが、足利尊氏が、弟の直義の邸宅跡に石清水八幡の若宮を境内四町四方、本殿八棟造りの立派な社に再興し、足利家の鎮守社としました。
社名は、尊氏の称号に因み等持院御所八幡宮と名付けられましたが、その場所から高倉八幡宮や三條坊門八幡宮とも呼ばれるようになります。
その後も朝廷や足利家から篤く崇敬されていましたが、応仁の乱や戦国時代の動乱によって足利幕府が滅亡すると、当社も衰退しました。
第2次大戦時の強制疎開で現在の規模に
江戸時代には、御池通の南、堺町の西、高倉の間に境内を有することになります。
明治以降も、神社は存続しましたが、第2次大戦時の強制疎開により現在地に移され、境内の規模も創建当時とは比べ物にならないほど狭くなってしまいました。
境内に入ると、そこにあるものすべてが小さいですね。
手水鉢は、住宅の洗面所ほどの大きさしかありません。
境内も一軒家が建つ程度の広さしかないので、あまり大きなものは置けないのでしょうね。
菊の御門が入った立派な石碑は、「皇太子殿下御成婚記念碑」です。
朝廷と深い関係にあった神社とあって、今でも皇族と関係のある記念碑が置かれていますね。
末社もとても小ぶりです。
末社は、高良社、稲荷社、猿田彦社、天満宮社の4社あります。
朱色の鳥居と玉垣がとても鮮やかで、狭い境内ではひときわ目立っていますね。
規模は小さくなってしまいましたが、歴史的には足利家や朝廷と深い関係にある神社なので、史跡としてこのまま存続すると良いのですが。
なお、御所八幡宮の詳細については以下のページを参考にしてみてください。