多紀理比売命(たぎりひめのみこと)、多岐津比売命(たぎつひめのみこと)、市岐嶋比売命(いちきしまひめのみこと)をあわせて宗像三女神(むなかたさんにょしん)といいます。
宗像三女神には、商売繁盛、家内安全、芸事上達、金運などのご利益があります。
日常生活にとって、ありがたいご利益が多いですね。
この宗像三女神を祀っている神社が京都御苑の中に2つあります。
ひとつは、宗像神社で、もうひとつは厳島神社です。
素戔嗚尊が生んだ三女神
宗像三女神を生んだのは、素戔嗚尊(すさのおのみこと)と伝えられています。
素戔嗚尊は、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の子です。
素戔嗚尊は、父の伊弉諾尊に海原を治めるように言われましたが、その言葉に従おうとせず、ただ泣くばかりでした。
そこで、伊弉諾尊が、なぜ父の言葉に従わず泣き続けるのかと、素戔嗚尊に尋ねたところ、自分は母の伊邪那美命(いざなみのみこと)がいる黄泉(よみ)の国に行きたいと言いました。
これに激怒した伊弉諾尊は、素戔嗚尊を勘当してしまいます。
父に勘当された素戔嗚尊は、その後、姉の天照大神がいる天の国へと行きます。
すると、素戔嗚尊が天の国に近づくにつれて、大地が震動し始めました。
この光景を見た天照大神は、素戔嗚尊が天の国を乗っ取りに来たのだと思い、臨戦態勢をとり、素戔嗚尊を待ち構えます。
素戔嗚尊が天の国にやってくると、天照大神は、なぜ天の国にやって来たのかと問いかけました。
それに対して、素戔嗚尊は、自分には何の邪心もなく、母の伊邪那美命に会いたいという気持ちを姉の天照大神に効いてもらいたいだけだと答えます。
この素戔嗚尊が言っていることが本当なのかどうなのかを見極めるために誓約(うけい)をすることにしました。
誓約とは、裁判のようなもので、あらかじめ予想した通りの結果が出れば、その言葉が正しいと判断するものです。
素戔嗚尊は、自分が今から女神を生めば、その言葉に偽りがないことが証明されると言い、持っていた十拳剣(とつかのつるぎ)を天照大神に渡し、反対に天照大神から勾玉(まがたま)を受け取りました。
天照大神は、十拳剣を聖水で清めた後、それを口に入れて噛み砕き、一気に吐き出しました。
すると、その息の中から多紀理比売命、多岐津比売命、市岐嶋比売命の三柱の女神が生まれました。
同じように素戔嗚尊も勾玉を清めて噛み砕き、それを吐き出すと五柱の男神が生まれました。
天照大神の息から生まれた三柱の女神は、十拳剣から生まれたので、素戔嗚尊が女神を生んだということになり、彼の言葉に偽りのないことが証明されました。
九州の宗像大社へ
三柱の女神は、その後、天照大神の命により、九州の宗像大社に鎮座することになりました。
そして、三柱の女神は、宗像の航海民から海神として信仰されるようになります。
その後、宗像三女神の信仰は瀬戸内海沿岸にまで広がり、広島の航海民たちによって三柱の女神を祀る厳島神社が創建されました。
厳島神社の名は、市岐嶋比売命の神名にちなむものです。
市岐嶋比売命は、美の神さまであったことから三柱の女神の中で最も人気があり、やがて、七福神の中の女神である弁財天と融合しました。
京都御苑内の宗像神社と厳島神社
京都御苑内の西に宗像神社が建っています。
祀られているのは、もちろん宗像三女神です。
延暦14年(795年)に藤原冬嗣が桓武天皇の命により皇居鎮護の神さまとして祀ったのが始まりです。
また、宗像三女神は、道主貴(みちぬしのむち)ともいい、全ての道を司る神さまとしても崇められています。
そのため、交通、文化、産業の道の安全繁栄の守護神ともされています。
下の写真に写っているのは、京都御苑内の南西に建つ厳島神社です。
広島の厳島神社は、平安時代に平清盛から崇敬されたことで有名です。
清盛は、厳島神社を崇敬するあまり、邸宅があった摂津国(現在の神戸)に社を建て、厳島大神を勧請したということです。
そして、後世になって京都御苑内の現在の地に移ってき、九条家の邸宅内に祀られたことから、同家の鎮守社となりました。
京都御苑内の宗像神社と厳島神社は、それほど離れていないので、商売繁盛や家内安全を祈願するなら、一緒に参拝しておくと良いですね。
なお、宗像神社と厳島神社の詳細については以下のページを参考にしてみてください。