京都市北区にある大徳寺は、広々とした境内を持つ臨済宗のお寺です。
境内には、一般公開されているものから通常非公開のものまで、たくさんの塔頭(たっちゅう)寺院が建っています。
大徳寺に塔頭が多く建っているのは、ここで織田信長の葬儀が行われたことと関係があります。
羽柴秀吉が織田信長の葬儀を大徳寺で執り行った理由
天正10年(1582年)6月2日に本能寺の変で、織田信長が明智光秀に討ち取られた後、中国の毛利を攻めていた羽柴秀吉は、一気に京都に引き返し、山崎の戦いで明智光秀に勝利しました。
この山崎の戦いの後、羽柴秀吉は、織田信長の天下取りの後を引き継ぐことになります。
しかし、秀吉の天下取りには、柴田勝家など織田家中のライバルがたくさんおり、そう簡単に自分が信長の後継者だと言えない状況にありました。
秀吉が、信長の後継者になるには、ライバルたちと戦をして勝つ必要がありましたが、実力行使以外にも、形式的に自分が後継者だと世間に訴える方法もあります。
それは、主君の葬儀を執り行うことです。
そこで、秀吉は、本能寺の変の4ヶ月後に信長の葬儀を行い、世間に自分が信長の後継者であることを示しました。
ところで、秀吉は、なぜ信長の葬儀を大徳寺で行ったのでしょうか。
秀吉の天下取りは、ここから始まっていくわけですが、そのためには武力を維持するための経済力が必要になります。
そこで、秀吉は、信長の三茶頭であった今井宗久、津田宗及、千利休の堺の商人との関係が良好であった大徳寺で信長の葬儀をすれば、堺の商人たちを味方につけられるに違いないと思いました。
堺の商人たちにとっても、自分たちの商売がうまくいくようにしたかったので、次の天下人に接近しておくことが得策です。
そう考えると、堺の商人たちが、積極的に秀吉に働きかけた可能性もあります。
後に千利休は、秀吉の茶頭となり出世しましたから、大徳寺での葬儀を提案したのは、千利休だったかもしれません。
信長は、京都に滞在する時は、法華宗の妙覚寺や本能寺に宿泊していたことを考えると、法華宗の寺院で葬儀を行っても良さそうなものです。
それが、臨済宗の大徳寺を秀吉は選んだのですから、そこには、何か理由があったに違いありません。
その理由が、堺の商人の経済力を味方につけることだったのでしょう。
織田信長の葬儀の後に建立された大徳寺の塔頭
信長の葬儀は、10月11日から7日間にわたり盛大に行われました。
その導師をつとめたのは、大導師の笑嶺宗訢(そうれいしょうきん)、怡雲宗悦(いうんそうえつ)、古渓宗陳(こけいそうちん)、明叔宗哲(めいしゅくそうてつ)、竹澗宗紋(ちくかんそうもん)、玉沖宗琇(ぎょくちゅうそうしゅう)、春屋宗園(しゅんおくそうえん)、仙岳宗洞(せんがくそうとう)の7人の高僧だったというのですから、葬儀への秀吉の力の入れ方がよくわかります。
そして、その翌年に織田信長の菩提寺として、大徳寺境内に塔頭の総見院が建立されました。
開山は、信長の葬儀で導師をつとめた古渓宗陳で、境内に織田信長や織田家の人々のお墓があります。
信長の葬儀以降、戦国武将たちが、大徳寺に次々と塔頭を建立していきます。
小早川隆景は、春屋宗園の師の春林宗俶(しゅんりんそうしゅく)を開山として黄梅院を建立。
そして、石田三成は春屋宗園を開山に三玄院、細川忠興は玉甫紹琮(ぎょくほじょうそう)を開山に高桐院を建立しています。
他にも戦国武将が建立した塔頭を大徳寺境内で見ることができます。
このように戦国武将たちが、大徳寺に塔頭を建立するようになったのは、羽柴秀吉が織田信長の葬儀を行って以降です。
信長の葬儀が、戦国武将たちの塔頭建立の契機になったのでしょう。
大徳寺は、戦国時代が好きな方なら、1日中楽しめるお寺となっています。
戦国好きの方は、京都観光の際、大徳寺にも参拝すると良いでしょう。
なお、大徳寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。