京都市中京区の烏丸通沿いは、多くのビルが建ち並ぶビジネス街となっています。
それらビルに囲まれた烏丸六角に六角堂の通称で親しまれている頂法寺があります。
六角堂は、聖徳太子を開基として創建されたというのですから、その歴史はとても古いです。
そして、その頃から、いけ花があったというのですから、こちらも長い歴史を持っています。
実は、六角堂といけ花の成立には関係があり、六角堂が建つ地は、いけ花発祥の地でもあるのです。
聖徳太子沐浴の遺跡
六角堂には、地下鉄の烏丸御池駅から南に約5分歩くと到着します。
六角堂は、上から見ると、お堂の屋根の形が六角形であることから、その名がつきました。
六角堂境内の北側には、池があり、いつもハクチョウが泳いでいます。
この池は、六角堂誕生の起源とされる聖徳太子沐浴の遺跡で、この池がなければ六角堂は創建されなかったかもしれません。
聖徳太子は、池で沐浴をした際、携えていた如意輪観音像を池のほとりの木にかけていました。
そして、帰ろうと思って如意輪観音像を取ろうとしたところ、とても重くて持つことができませんでした。
これは、仏が衆生済度(しゅじょうさいど)を望んでいるに違いないと思った聖徳太子は、この地にお堂を建てることを決めます。
それが、六角堂の始まりです。
その後、聖徳太子は、六角堂の守護を遣隋使として有名な小野妹子に命じます。
小野妹子は、池のほとりの寺坊に住み、朝夕欠かさず仏前に花を供えました。
池のほとりの寺坊から池坊(いけのぼう)と呼ばれるようになり、仏前に花を供えたことが、華道家元池坊の起源とされています。
いけ花発祥の地モニュメント
六角堂境内の北西角には、「いけ花発祥の地モニュメント」があり、その後ろの壁には、『池坊専応口伝』の冒頭の文章が記されています。
六角堂の北側には華道家元池坊のビルがあり、今でも、六角堂と池坊が深い関係にあることがうかがえます。
池坊のいけ花には、立花(りっか)、生花(しょうか)、自由花(じゆうか)があり、最も古い様式は立花です。
立花は、一瓶に花を飾るもので、室町時代に成立しました。
それまで、花を愛でると言えば、自然に咲いている花を観賞することでしたが、植物を室内で芸術品のように鑑賞するようになったのは、立花以後の文化と考えられます。
室町時代には、中国から渡ってきた書画、陶磁器、漆器などの唐物を座敷に飾り立てる座敷飾りが盛んとなり、立花もまた、座敷の装飾として用いられるようになりました。
東福寺の僧侶であった雲泉太極の日記『碧山日録(へきざんにちろく)』には、寛正3年(1462年)に北近江の守護大名京極持清が、六角堂の専慶を招いて数十枝の草花を金瓶に立てさせたところ、洛中の愛好家が競って愛でたとの記載があります。
専慶は、池坊流派の開祖とされ、その後、専応、初代専好、二代専好などを輩出していきました。
現在も六角堂の境内では、季節の花を見ることができ、また、華道家元池坊のビルの烏丸通側の壁面では、いけ花が展示されているのを見ることがあります。
もしも、聖徳太子が、この地で沐浴をしなければ六角堂は創建されなかったでしょうし、いけ花も成立しなかったかもしれません。
古代の京都市中心部に池があったことも、いけ花の成立に貢献したと言えそうですね。
なお、六角堂の詳細については以下のページを参考にしてみてください。