三条大橋から五条大橋まで、鴨川の西側には、お店などのたくさんの建物が並んでいます。
今では、鴨川沿いに建物があるのは当たり前の風景となっていますが、かつては鴨川が氾濫したことから居住に適する場所ではありませんでした。
中世においては、人家が鴨川沿いに見られるようになりますが、定住していたわけではなく、飢饉や疫病などの災害で、集まった被災者が住む場所でした。
応永の大飢饉で京都に人が集まる
室町時代の応永27年(1420年)。
この年は、全国規模で大飢饉が発生しました。
岩波新書の『京都の歴史を歩く』によれば、この年は春から夏にかけて降雨日数が少なく、秋に降雨日数が異常に多くなったそうです。
そして、それ以前の数年にわたる気候の不安定もあり、飢饉となったのだとか。
この頃、日本の富は、京都に集中する状況だったため、地方から食べ物に困った人々が京都に流れ込む事態となりました。
伏見宮貞成親王(ふしみのみやさだふさしんのう)が記した『看聞御記』の応永二十八年二月十八日条では、諸国の貧人が上洛し、町にホームレスが溢れ、数知れないほどの餓死者が出て、路頭に倒れていたと記録されています。
看聞御記の現代語訳は以下のウェブサイトをご覧ください。
足利義持が五条河原で施行を行う
大飢饉で京都に貧しい人々が溢れたことを受け、室町幕府4代将軍の足利義持は、諸大名に命じて、五条河原に仮屋を建てさせ食べ物を施し与える施行を行いました。
当時、五条河原に架かっていた橋は、現在の五条大橋ではなく、それよりも北にある松原橋でした。
当時の五条橋は、この松原橋のことで、清水寺への参詣路となっていました。
牛若丸と弁慶が出会ったのも、この松原橋と言われています。
五条河原に集まってきた人々は、お粥を食べ始めます。
しかし、それが身体に響いたのか、亡くなった人が千万もいたそうです。
極度の空腹時にいきなり糖質が含まれている食物を口にすると、リフィーディング症候群を発症し命の危険があります。
餓死寸前の人々がお粥を食べたことで、リフィーディング症候群を発症したのではないでしょうか。
この年の春には、疫病も流行し、万人が死去したと看聞御記に記されています。
天龍寺と相国寺でも、施行が行われ、貧しい人が大勢集まったそうです。
疫病の流行を予防できなかった五條天神宮が天皇の命で流罪になったのもこの年ですね。
五条河原で施餓鬼を行う
翌応永29年には、足利義持の命で、天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺の五山僧が、五条河原で死者を供養する施餓鬼(せがき)が行われることになりました。
施餓鬼は、餓鬼道におちて飢餓に苦しむ亡者に飲食物を施す行事です。
その施餓鬼の前には、勧進僧が読経しながら死骸の骨で6体の地蔵を造り、石塔を建てて供養する河原施餓鬼も行われたそうです。
しかし、義持の施餓鬼は、大雨の影響で延引となっています。
集められた寄付は五山の各寺院に移され、それぞれの寺で施餓鬼を行うようにとの義持の命が下されたことが、『看聞御記』の応永二十九年九月七日条に記されています。
現在の四条大橋から五条大橋の間の鴨川沿いには、多くのソメイヨシノが植えられ、桜の名所となっています。
多くの旅行者や観光客が桜を見に訪れる鴨川ですが、室町時代には、飢饉で苦しむ人々が行く当てもなく集まる場所だったんですね。
一見華やかに見える場所でも、かつて苦しむ人々がいたのが京都の街の特徴と言えます。