京都市左京区の銀閣寺は、北区の金閣寺と対比されて語られることがあります。
金閣は金色ですが、銀閣は銀色ではないことが、なぜなのだろうと不思議に思い、両者を比較してしまうのかもしれません。
銀閣寺は、正式には、慈照寺(じしょうじ)というお寺で、境内には錦鏡池(きんきょうち)と呼ばれる池を中心とした慈照寺庭園があります。
今回の記事では、その慈照寺庭園を紹介します。
銀沙灘と向月台
銀閣寺には、市バス停「銀閣寺道」から東に徒歩約10分で到着します。
総門をくぐって銀閣寺垣を見ながら南に進んでいくと拝観受付があるので、ここで拝観料を納めます。
そして、中門をくぐり、東に歩いて行くと、白砂を壇上に敷き詰め、表面に波紋が描かれた銀沙灘(ぎんしゃだん)が現れます。
真っ白な白砂の奥に見えるのは、月待山です。
この銀沙灘は、月待山に上る月の光を反射させるために造られたものだと言われていますが、実際のところはわかりません。
ただ、銀沙灘は、月光に輝く白砂の美しさから、銀閣寺と通称されるようになったと言われていますから、銀閣寺にとって欠かすことができないものと言えます。
下の写真は、銀沙灘の段差です。
平面に白砂が敷かれているのではありません。
しっかりと白砂を盛り上げているんですね。
銀沙灘の南の方には向月台と呼ばれる円錐形の白砂の山があります。
向月台は、この上に座って東山に上る月を待つものと噂されていますが、その真偽も不明です。
秋になると、紅葉と一緒に向月台を見ることができますよ。
また、唐門にある花頭窓からも、銀沙灘を見ることができますから、銀閣寺に参拝したときには、ここからも銀沙灘を見ておきたいですね。
銀閣寺は、室町幕府8代将軍の足利義政が、文明14年(1482年)から7年の歳月をかけて造営したのですが、その当時には、銀沙灘も向月台もありませんでした。
これらが銀閣に造られたのは江戸時代のことで、慈照寺が銀閣寺と呼ばれるようになったのも江戸時代です。
銀色に輝く銀沙灘を見た誰かが、銀閣寺と呼ぶようになったのかもしれませんね。
東求堂と観音殿
銀閣寺は、戦国時代の兵火によって多くの建物を失いましたが、東求堂(とうぐどう)と観音殿は残りました。
江戸時代に銀閣寺は、相国寺の末寺となり、同寺の大檀越の宮城豊盛によって方丈が建築されるとともに庭園整備、東求堂と観音殿の修理も行われます。
錦鏡池の北側に建つ東求堂は、一層の入母屋造、檜皮葺の現存する最古の書院造の建物で国宝に指定されています。
この建物は、足利義政の持仏堂で、中には阿弥陀三尊像が安置されています。
南面に拭板敷、方二間の仏間が設けられ、北面には六畳と四畳半の部屋があります。
四畳半の部屋は、同仁斎(どうじんさい)と呼ばれ、草庵茶室の源流であるとともに現代の四畳半の間取りの始まりとされています。
錦鏡池の西側には、銀閣と呼ばれる観音殿が建っています。
見てのとおり、建物は銀色ではありません。
でも、晴れている日には屋根に太陽光が当たり銀色に輝いて見えますから、銀閣の名にふさわしい姿とも言えます。
2層からなる観音殿は、1層目は心空殿(しんくうでん)と呼ばれ書院風になっています。
2層目は、潮音閣(ちょうおんかく)と呼ばれており、板壁に花頭窓がしつらえてあり、桟唐戸を設けた唐様仏殿の様式になっています。
観音殿の前の錦鏡池には、中島の仙人州があります。
池の護岸や池中には、名石がたくさん使われていますが、これらの石は、京都や奈良の寺社などから無理やり持ってきたものだと言われています。
また、慈照寺の建築には飢饉に苦しむ農民たちに重税を課したり、日明貿易の利益を投入したりし、幕府の財政を危機的な状況まで悪化させました。
足利義政の時代に造営された慈照寺庭園は、錦鏡池、観音殿、東求堂が、その時代のもので、室町時代の侘び寂びの文化を感じられる景観となっています。
一方、銀沙灘や向月台も、白砂だけの簡素な造りですが、侘び寂びとは違った明るい趣があります。
室町時代と江戸時代の趣向を楽しめるのが、慈照寺庭園の良いところですね。
なお、銀閣寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。