5月末に京都市東山区の清水寺を訪れた後、北に15分ほど歩いて京都霊山護国神社(きょうとりょうぜんごこくじんじゃ)に参拝しました。
京都霊山護国神社は、幕末・明治維新の動乱で散っていった志士たちのお墓があり、歴史好きの方に人気があります。
でも、普段は、人が少なめで境内が混雑することはありません。
人がいない維新の道
京都霊山護国神社の最寄り駅は、京阪電車の祇園四条駅です。
駅からは、南東に徒歩約15分です。
市バスだと、「東山安井」から東に徒歩約10分です。
今回は、清水寺から京都霊山護国神社に向かったので、二年坂を北に歩きます。
二年坂は、人が少なく、閉まっているお店も目立ちます。
南の三年坂も無人に近い状態で、閑散としていました。
でも、八坂の塔の近くは、記念撮影をしている新婚夫婦の姿が見られ、割とにぎわっていましたよ。
二年坂を下りて北に進み、パークハイアット京都を過ぎて右に曲がると、鳥居が現れます。
この鳥居は、京都霊山護国神社のもので、ここから山に向かって延びる道路は維新の道と呼ばれています。
ここも人がいません。
そして、車もほとんど通っていません。
この辺りがこんなに静かなのは久しぶりです。
緊急事態宣言が出ているため、東山は、どこも人が少なくなっています。
境内は無人
維新の道を3分ほど上ると、左側に京都霊山護国神社、右側に霊山歴史館が建っています。
京都霊山護国神社の境内に入っても、人がいません。
京都霊山護国神社は、幕末から各藩が、ここ霊山に殉難者を祀っていたのが起源で、明治元年(1868年)5月10日に明治天皇が、維新を前にして倒れた志士の霊を祀るよう布告したのが始まりです。
この時は、まだ慶応4年で、新政府軍と旧幕府軍との間で戦いが繰り広げられています。
当社は、日本で最初の官祭招魂社で、各藩が社殿を建立し、同年7月に盛大に祭典が催されました。
天誅組の義挙や蛤御門(はまぐりごもん)の変などに加わった志士たちの墓が300以上あり、その中には坂本竜馬のお墓もあります。
明治10年になると、皇室から巨費が下賜され、神域が整備されます。
さらに昭和4年(1929年)には、昭和天皇の即位大礼の建物が下賜されて社殿が整備され、昭和14年に護国神社に改称されました。
それでは、本殿にお参りをしましょう。
本殿から振り返り、境内を眺めます。
誰もいません。
狛犬が寂しそうにしています。
京都霊山護国神社には、維新の志士たちだけでなく、大東亜戦争までに戦死した京都府出身者の英霊73,011柱が奉祀されています。
拝殿の近くには、千羽鶴がかかっていました。
境内の東側、霊山を背に大東亜戦争で戦死した人々の顕彰碑や慰霊碑が立っています。
こちらは、特操の碑です。
昭和18年、日本の戦況が急に悪化し、存亡をかけた総力戦となりました。
この年の10月、2千5百人以上の若者が、学業をなげうち、陸軍特別操縦見習士官として猛訓練を受け、戦地に送られました。
中には、特攻の主力となって自爆した者もいたそうです。
特操の碑の近くには、大きな陸軍特別操縦見習士官之碑もあります。
京都霊山護国神社では、毎年11月15日に龍馬祭が催されます。
この日は、坂本竜馬が近江屋で暗殺された日です。
また、桂小五郎の命日である5月26日には松菊祭が行われます。
霊山には、桂小五郎とその妻の幾松のお墓もありますよ。
それにしても、境内には誰もおらず静かです。
京都霊山護国神社を出て、維新の道を下ります。
向こうには、八坂の塔が青空を背景に建っています。
ここからの眺めは、江戸時代の京都のような雰囲気を楽しめます。
維新の道の端で、三脚を立てて八坂の塔を撮影している人以外は誰もいませんでした。
この後は、円山公園にサツキを見に行きます。
なお、京都霊山護国神社の詳細については以下のページを参考にしてみてください。