2月上旬に京都市伏見区の宝塔寺に参拝した後、南に3分ほど歩いて瑞光寺を訪れました。
瑞光寺は、茅葺屋根の本堂が心落ち着く外観をしています。
都会の喧騒を忘れたくなる時は、瑞光寺の本堂を見たくなりますね。
本堂に参拝
瑞光寺には、京阪電車の龍谷大前深草駅から南東に8分ほど歩くと到着します。
入り口には、大きな石がいくつか置かれています。
参道には、南無開運帝釈天王、南無白鬚銭洗弁財天と書かれたのぼりがいくつも並んでいました。
参道の奥の石段上には、山門が建っています。
以前は、この山門も茅葺屋根だったのですが、数年前に今の姿に変わりました。
山門をくぐって境内へ。
境内で、最初に目にするのは鐘楼です。
木々から葉が落ち、鐘楼の奥の景色が見やすくなっています。
これも、冬の京都観光の魅力であります。
鐘楼から少し歩き左に曲がると、奥に本堂が見えます。
本堂は、寂音堂とも呼ばれていますが、その名にぴったりの姿をしていますね。
それでは、本堂にお参りをしましょう。
瑞光寺が建つ地は、極楽寺薬師堂の旧跡です。
応仁の乱(1467年)で荒廃しましたが、明暦元年(1655年)に元政上人が日蓮宗のお寺とし、瑞光寺と名付けました。
元政上人は、京都で生まれ、俗名を石井吉兵衛といいました。
もとは、彦根藩井伊直孝に仕える武士でしたが、病弱だったため、妙顕寺の日豊上人に師事して出家します。
元政上人は、石川丈山、熊沢蕃山、松永貞徳などとも交友があった学識豊かな人物で、多くの著作を残しています。
また、この地に草庵を建てた元政上人は、父母を引き取って孝養に努めます。
病弱だった上人は、父母に先立つ不幸を恐れ、摂生に努めました。
そして、母が87歳で亡くなると、その2ヶ月後に上人も46歳でこの世を去りました。
境内の西の鎮守社には、帝釈天と弁財天が祀られています。
参道に並んでいたのぼりに記されていたのは、この鎮守社に祀られている神さまなんですね。
元政上人の墓
境内から外に出ます。
そして西に少し歩き、線路の下をくぐります。
すると、元政上人のお墓の入り口があります。
いつも墓地の戸が閉まっているので、中に入れないと思っていたのですが、どうやら戸を開けてお参りできるようです。
入り口から20メートルほど歩くと、廟所があります。
奥には、土に竹が3本刺さっています。
ここが元政上人のお墓です。
元政上人の遺命で、お墓はこのように簡素なものとされました。
3本の竹には、以下の意味が込められています。
- 1本は、法華経広宣流布のため
- 1本は、衆生救済のため
- 1本は、両親のため
元政上人の高潔な人柄に感動した水戸光圀は、「嗚呼孝子元政之墓」という碑を立てたいと瑞光寺に申し出ましたが、当時の住持は、元政上人の精神にそぐわないとして、その申し出を断ったとされています。
現在では、元政上人のお墓の前にその墓標が立っています。
また、元政上人のお墓で、お百度参りをすると、縁結び、縁切りのご利益を授かれると伝えられています。
時計回りにお百度参りをすれば縁結び、反時計回りにお百度参りをすれば縁切りが叶うそうです。
どちらの場合も年齢の数を回り、できれば21日間お参りした方が良いとのこと。
瑞光寺の観音堂では、特別祈願もしています。
元政上人のお墓でお百度参りをすると縁結び、縁切りが叶うのは、元政上人が武士より縁を断ち、強い縁をもって仏さまと縁を結んだからだそうです。
他にも、お墓の周りを掃除して、竹の葉を1枚いただき、相手の男性の襟に縫い込んでおくと縁が切れるとも信仰されています。
元政上人が武士だったころ、吉原の高尾太夫と結婚の約束をしました。
一方、仙台伊達家の殿さまも、高尾を身請けしようとしました。
彼女がそれを断ったところ、殿さまに斬り殺されてしまいました。
この噂から、縁切りの信仰が生まれたとも伝えられています。
質素な元政上人のお墓を見ると、瑞光寺の寂音堂が、あのような落ち着きのある姿をしている理由がわかるような気がしますね。
瑞光寺では、毎年3月18日に元政忌が行われ、元政上人の遺品などが公開されますよ。
瑞光寺を訪れた際は、元政上人のお墓にもお参りをしてください。
この後は、藤森神社に参拝します。
なお、瑞光寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。