京都市上京区に廬山寺(ろざんじ)というお寺があります。
廬山寺の境内の東には、光格天皇の父である慶光天皇(きょうこうてんのう)の陵があります。
光格天皇が即位したのは江戸時代後期のこと。
光格天皇の前の天皇は後桃園天皇だったのですが、後桃園天皇には男子がいませんでした。
そのため、後桃園天皇が崩御した後は、慶光天皇の男子であった光格天皇が即位することになりました。
尊号一件
後桃園天皇と慶光天皇は同じ時代の人物です。
同じ時代に2人の天皇が皇位につくのは稀なことです。
南北朝時代には南朝と北朝にそれぞれ天皇がいました。
では、江戸時代も南北朝時代と同じように2人の天皇が同時に皇位についていたのかというと、そのようなことはありません。
慶光天皇は、江戸時代には閑院宮典仁親王(かんいんのみやすけひとしんのう)と呼ばれていました。
光格天皇が即位すると、典仁親王は天皇の父となります。
しかし、典仁親王の地位は天皇の臣下である大臣よりも低く、これでは格好がつきません。
そこで、光格天皇は父の典仁親王に太上天皇の尊号を贈ることを計画します。
朝廷から幕府にその旨が伝えられると、老中の松平定信は皇位についていない人に太上天皇の尊号を贈ることは認めないとし、これを許しませんでした。
それならと、光格天皇は公卿の多数が賛成していることから、典仁親王に尊号を贈ることを幕府の許しなく決定します。
ところが、幕府との関係悪化を恐れた典仁親王の弟の鷹司輔平(たかつかさすけひら)が、事態の収束を図り、尊号を贈らない代わりとして典仁親王の待遇改善を幕府に要求し、松平定信もそれを認めました。
この事件は、尊号一件と呼ばれ、事件に関わった公家が後に処分されています。
また、この頃、九州で勤王の活動をしていた高山彦九郎も尊号一件によって幕府に睨まれることになりました。
時は流れ明治17年(1884年)。
典仁親王は、明治天皇の高祖父にあたるということで、慶光天皇の諡号(しごう)が贈られるとともに太上天皇の尊号も贈られ、光格天皇の意思は100年近く経って叶えられました。
後桃園天皇と慶光天皇は同じ時代の人物ですが、同時に皇位についていたのではありません。
慶光天皇廬山寺陵
京都御苑の東の寺町通沿いにある廬山寺の山門をくぐると、正面に元三大師堂が建っています。
そこから境内南の参道を東に向かって歩きます。
塀の内側には、夏のキキョウや秋の紅葉が美しい源氏庭がありますね。
参道の奥まで進んだ後、北に少し歩くと、慶光天皇廬山寺陵があります。
同じ敷地内には、慶光天皇妃成子内親王墓、東山天皇後宮新崇賢門院藤原賀子墓など15の皇族関係者のお墓もあります。
慶光天皇廬山寺陵は、宮内庁の管理ですが、誰でもお参りできますよ。
なお、廬山寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。