元治元年(1864年)6月5日の早朝。
木屋町四条で、新撰組隊士20数名による捕物がありました。
捕えられたのは、枡屋喜右衛門という商人だったのですが、これが当初は予想もしていなかった大物のテロリストだったのです。
長州藩士や諸国脱藩浪士が池田屋に出入り
5月末頃から、枡屋から北に10分ほど歩いた辺りにある三条小橋西詰の池田屋にしきりと長州藩士や諸国脱藩浪士が出入りする姿を見かけるようになりました。
長州藩は前年の八月十八日の政変で政治の舞台から追い落とされたから、京都に入ることができません。
その長州藩士たちが、池田屋の辺りをうろうろとしているのですから、何か企んでいるに違いないと思うのは当然のこと。
だから、新撰組は彼らの動きを警戒していました。
池田屋が怪しいのは十分に承知していた新撰組ですが、どうも枡屋も調べてみる必要がありそうだとなって、6月5日の早朝に沖田総司、永倉新八、原田左之助らが隊士20数名を率いて壬生の屯所を出発します。
しかし、新撰組が寝込みを襲ったものの、あらかじめ万が一に備えていた雇人たちは素早く逃げてしまいました。
でも、主の喜右衛門だけは、何やら書類に火をつけているところを捕えられ、屯所まで連行されます。
また、新撰組隊士が家探しをすると、枡屋の中からたくさんの武器が見つかり、喜右衛門の正体がますます怪しくなりました。
意外な大物志士だった
捕えられた枡屋喜右衛門は、本名を古高俊太郎といい、安政の大獄で獄死した梅田雲浜とも親交がありました。
取り調べで本名を名乗った古高俊太郎。
新撰組は、彼を大した人物ではないだろうと思っていましたが、副長の土方歳三(ひじかたとしぞう)が拷問を加えると、とんでもないテロを企てていることを自白します。
古高俊太郎によると、長州系の勤王の志士たちが、6月20日前後の風の強い日を選んで京都御所を中心に京都の町に放火する計画を企んでいるとのこと。
そして、会津藩主で京都守護職の松平容保(まつだいらかたもり)を血祭りに上げた後、孝明天皇を拉致して長州に連れて行こうとしていたのです。
新撰組は、当初は古高俊太郎を小物だと思っていただけに彼の自白に大変驚かされました。
古高の自白で長州系浪士たちのテロの計画を知った新選組局長の近藤勇(こんどういさみ)は、すぐに隊士を招集。
その日の夜に池田屋を襲撃して、テロリストたちを一網打尽にしたのでした。
古高俊太郎邸跡の石碑
現在、木屋町四条の枡屋があった場所には、「勤王志士 古高俊太郎邸跡」を示す石碑が立っています。
池田屋事件は、ここから始まったんですね。
古高俊太郎は、新撰組の取り調べの後、六角獄舎に入れられました。
それから1ヶ月後。
池田屋事件の報復のために長州藩が京都に乱入する蛤御門(はまぐりごもん)の変が起き、その時に囚人の脱走を恐れた幕府の役人が、政治犯たちを次々に処刑します。
その中には、古高俊太郎もいました。
享年37歳。
後に六角獄舎で非業の死を遂げた勤王の志士たちは上京区の竹林寺に埋葬されました。
なお、古高俊太郎は、明治24年(1891年)に特旨をもって正五位を贈られています。