京都の庶民のはかない思いが地名となった化野

京都には、難読地名がたくさんあります。

蛸薬師(たこやくし)を一見して読める方は、なかなかの京都通と言えるのではないでしょうか。

でも、京都通の方でも、化野をすぐに読める方となると、その数は、かなり減りそうです。

「ばけの」や「かの」、「けの」と読んでしまいそうですが、化野と書いて「あだしの」と読むのが正解です。

化野は、京都市右京区の嵯峨野の北にある地名です。

いったい、なぜ、このような変わった名がついたのでしょうか。

平安時代の庶民は野ざらしが当たり前

平安時代に都が置かれた平安京は、とても華やかな印象がありますが、それは、一部の貴族だけの話で、庶民は常に貧しい暮らしをしていました。

彼らの生活は飢えとの戦いと言ってもよく、飢饉にでもなれば、道端に行き倒れとなった人々の遺骸がゴロゴロと転がっているのは当たり前。

そのため、疫病が流行し、さらに死者の数が増えるという悪循環が起こることもありました。

そのような状況でも、京都には、3ヶ所に葬送地が造られました。

鳥辺野(とりべの)、蓮台野(れんだいの)、化野がそれで、京都の三大葬送地と呼ばれていました。

さて、化野の地名の由来ですが、これは、以前に紹介した書籍「京都『地理・地名・地図』の謎」で解説されています。以下に該当箇所を引用します。

「化」という字は、「化す」「化ける」の意で、「生が化して死となる」ことをあらわす。読み方の「あだし」は「はかない」「むなしい」という意味。つまり「化野」には、「この世は人が生を受けて死んでゆくはかないもの。だから再び生まれ化すことや極楽浄土に往生することを願う」という古代人の深い思いが込められているのだ。

現世では、身分の壁や貧富の差によって、貧しい人たちは、死ぬまで貧しい生活を強いられます。

だから、死んだ後、極楽浄土で幸せになるんだといった思いが、化野の地名に込められているんですね。

化野念仏寺の西院の河原に庶民のはかなさを見る

化野には、化野念仏寺というお寺が建っています。

平安時代に嵯峨野を訪れた空海が、野ざらしになっている死体を哀れに思って埋葬し、1,000体の石仏を祀って如来寺を建てました。

それが、当寺の始まりで、鎌倉時代初期に法然が念仏道場としたことから、念仏寺と改名されました。

今でも、化野念仏寺の境内には、たくさんの石仏が並んでいる西院(さい)の河原があります。

化野念仏寺の西院の河原

化野念仏寺の西院の河原

石仏がずらっと並ぶ景色を見ていると、この地に埋葬された人々が、極楽往生できたことを願うばかりです。

庶民が貧しい生活をしていたのは、平安時代だけでなく室町時代や戦国時代でも同じでした。

だから、彼らは、仏教の教えを信じ、現世では幸せになれなくても極楽往生すれば、幸せになれると思い、時の権力者と戦って死ぬことを恐れませんでした。

それが一向一揆で、織田信長や徳川家康も、彼らには大いに苦しめられました。

為政者は、庶民の暮らしを守ってこそ、自分たちも安らかに生活できるのだということを忘れないで欲しいものです。

なお、化野念仏寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。