新撰組誕生の瞬間を見届けた新徳寺

文久3年(1863年)2月23日。

今日からちょうど150年前に近藤勇(こうどういさみ)が上洛しました。

近藤勇は、後に新撰組の局長となる人物で、この日の上洛が、彼の人生にとって重要な1日となりました。

幕府が浪士を募集

近藤勇が上洛する発端となったのは、幕府が浪士組を結成するために浪士を募集したことにあります。

文久2年あたりから、京都では浪人が天誅と称して公卿や幕府関係者たちを暗殺する事件が頻発していました。

こういった状況の中で、浪人を野放しにしておくのは危険です。

彼らの暗殺行為を止めさせるには、幕府が浪人を雇って治安維持につとめさせることが得策だと、清河八郎と幕臣の山岡鉄太郎は考えました。

そして、山岡から講武所の剣術師範役並出役の松平主税介(まつだいらちからのすけ)に浪士組結成のために幕府が浪士を募集すべきだと献策します。

それは良い案だと思った松平主税介は、文久2年10月17日に江戸城に登城し、政事総裁職の松平春嶽(まつだいらしゅんがく)と老中の板倉勝静(いたくらかつきよ)に献策、12月8日に幕府は正式に浪士の募集を決定しました。

浪士の募集は50人で、1人当たり50両の手当の支給という条件でした。

この知らせを聞いた近藤勇は、自身が開いていた剣術道場の試衛館の門弟を率いて浪士組に応募することにしました。

集まった浪士は当初の予想を大幅に上回る350名。

これを知った松平主税介は、さすがに慌てましたが、募集をしてしまった以上、追い返すことはできません。

予想以上に浪士が多く集まったことを知った幕府は、どうも清河八郎が浪士たちを使ってよからぬことを考えているのではないかと疑い始めます。

そこで幕府は、集まりすぎた浪士たちを江戸にこのまま置いておくと危険だと判断し、近々14代将軍の徳川家茂(とくがわいえもち)が上洛することになっていることから、将軍の警護をさせるため、それに先立ち、浪士組を京都に送ることを決定しました。

最終的に集まった浪士たちは選考により約250名にしぼられ、1人当たりの手当は当初予定していた50両から10両に減額されることになりました。

手当てが減ったことに不満はあったものの、近藤勇以下試衛館道場の門弟たちは、浪士組に入り、文久3年2月8日に江戸から京都に向けて出発しました。

本庄宿での焚火

江戸を出発して2日後の2月10日に本庄宿についた浪士隊は、この地で1泊することになりました。

この時、浪士たちの宿割りを担当したのが、近藤勇でした。

近藤は、浪士たちの宿を全部確保したと思っていたのですが、芹沢鴨(せりざわかも)以下数名の宿を手配し忘れていました。

芹沢が穏やかな性格であれば、自分の失態を認めて謝罪している近藤を許したのでしょうが、彼は気が短かったため、怒り出しました。

そして、部下に命じてたくさんの材木を用意させ、それを宿場の真ん中に山積みし、焚火を始めたのです。

炎は高々と上がり、今にも近くの宿に燃え移ろうというほどの勢いに発展。

宿場は一気に騒然となります。

このままどうなるのかと、宿場の人々が心配するのはもちろんのこと、浪士組の中にも不安になる者が出てきました。

最終的にこの焚火は、近藤勇が芹沢鴨に謝り続け、近藤の宿に芹沢が宿泊することが決まり、治まりました。

新徳寺での清河八郎の演説

本庄宿での一件はあったものの、浪士組は、2月23日に無事に京都に入ることができ、各人の部屋割りが済んだ後に壬生(みぶ)の新徳寺に集合することになりました。

ここで、浪士組の結成を考えた清河八郎が一同を前に演説を始めます。

清河は、浪士組は将軍の警護が本来の目的ではなく、天皇を守り外国人を日本から追い出す尊王攘夷(そんのうじょうい)のために結成された集団だと言い出しました。

これには一同唖然としましたが、清河の演説のうまさに引き込まれ、多くの浪士たちが彼の言うことに納得しました。

ただ、近藤勇率いる試衛館道場の者たちは、清河の言うことに納得しませんでした。

新徳寺での集会は、2月29日にも行われました。

この頃、薩摩藩の行列をイギリス人が横切ったことを理由に藩士が無礼討ちをした生麦事件に対する賠償を幕府に求めて、イギリス艦隊が横浜に停泊していました。

そのため、清河八郎は、直ちに江戸に引き返し、イギリス人艦隊に備えるべきだと主張しました。また、この件については、朝廷からも許しを得ていたので、尊王攘夷を叫んでいた浪士たちは、大いに喜びました。

しかし、清河八郎の江戸に引き返すという主張に近藤勇が反対しました。

そもそも浪士組は、将軍の警護のために上洛したのに、それを放棄して江戸に帰ってしまうのは、おかしいと主張したのです。

この近藤の主張には、思いもよらない人物も賛成しました。

それは、本庄宿で近藤の不手際に怒った芹沢鴨でした。

新撰組誕生

浪士組が、江戸に引き返すという報告は、幕府の板倉勝静の耳にも届きました。

板倉は、尊王攘夷を叫ぶ浪士たちを京都に残すことは危険なことなので、江戸に返すことは良いことかもしれないと考えます。

そして、将軍警護のために働こうという浪士が中にはいるはずだと思い、鵜殿鳩翁(うどのきゅうおう)にそういった者たちがいないかを探させました。

すると、3月10日に近藤勇と芹沢鴨などが京都残留を鵜殿に報告にきました。

これで近藤たちの京都残留が決定し、さらに3月12日には京都守護職の会津藩預かりとなることが決まりました。

翌日3月13日に浪士組が江戸に向けて出発する際、近藤たちは清河に京都に残ることを告げて、彼らは浪士組を脱退して壬生浪士組となり、やがて、新撰組と名を変えて、八木邸を屯所として京都の治安維持にあたることになりました。

浪士組が京都で集会を行った新徳寺は、現在も京都市中京区の壬生に建っています。

新徳寺

新徳寺

門には、新徳禅寺と書かれています。

どうやら中には入れないようなので、外から建物を眺めるだけしかできませんでした。

ちょうど150年前に新撰組が誕生したことが、新たな幕末史の始まりであり、その瞬間を見届けたお寺が今も残っているというのは、感慨深いものがありますね。

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