文久2年(1862年)2月。
孝明天皇の妹の和宮(かずのみや)が14代将軍徳川家茂(とくがわいえもち)に嫁ぎました。
これは、幕府が国難を乗り切るために朝廷と力を合わせる公武合体を実現するために求めたもので、朝廷は、幕府の政治体制の改革、将軍家茂の上洛、外国人を日本から追い出す攘夷(じょうい)の決行期日と具体策の策定を条件に和宮を嫁がせることを承諾しました。
幕府は、この条件を飲んだため、翌文久3年に将軍家茂が上洛することとなります。
長州藩の画策で賀茂行幸が実現
文久3年3月に徳川家茂が上洛し、孝明天皇に和宮を徳川家に嫁がせたことのお礼を申し上げました。
孝明天皇は、自分の妹を武家に嫁がすことにとても反対だったのですが、初めて家茂と会った時、その柔和な人柄に好感を持ち、以後、家茂を信頼するようになったといわれています。
3月11日。
孝明天皇が、賀茂社に行幸し、攘夷祈願を行いました。
賀茂社とは、上賀茂神社と下鴨神社の総称です。
この賀茂行幸を画策したのが、長州藩でした。
長州藩は、幕府が開国したことに反対だったため、以前のように鎖国すべきだと主張していました。
また、日本では天皇が最もえらく、徳川もその臣下に過ぎないのだから、天皇を尊重すべきだという尊王の考えも持っていました。
そこで、長州藩は、孝明天皇が賀茂社に譲位祈願を行うように仕組み、徳川家茂がその供をすることで、天皇の方が将軍よりもえらいのだということを人々に知らしめようとしたのです。
これに対して幕府は、長州藩が裏で手を引いていることをわかっていましたが、朝廷と手を取り合って国難を乗り切るための公武合体を実現するためには、家茂が、孝明天皇の賀茂行幸のお供をするのもやむを得ないと考えました。
また、賀茂行幸で将軍家の威権を確立しようという意図もありました。
その威権を示すために将軍上洛の少し前に会津藩主の松平容保(まつだいらかたもり)を京都守護職に任じ、会津藩兵1,000人を京都に常駐させることにしたのです。
いよう、征夷大将軍
孝明天皇の行幸の列は、午前10時ころに京都御所を出発し、下鴨神社で祈願した後、賀茂川沿いを上賀茂神社に向かって進んでいました。
沿道では、人々が平伏し、行幸の列が通り過ぎるのをじっと待っています。
孝明天皇は車の中。
徳川家茂は、天皇のお供として馬に乗り、進んでいきます。
すると、沿道から「いよう、征夷大将軍」と徳川家茂に声をかけた者がいました。
その声の主は、長州藩士の高杉晋作でした。
通常なら、大名とは言え将軍の顔を見ることも許されないのに沿道から将軍に声をかけるとは、非礼極まる行為です。
直ちに家茂の従者たちは、高杉晋作を取り押さえたいところですが、この日は、孝明天皇のお供をしている身。
将軍とは言え、行幸の列を乱すわけにはいきません。
結局、高杉晋作を捕えることはできず、そのまま上賀茂神社へと向かうしかありませんでした。
上賀茂神社に祈願した後、孝明天皇が京都御所に戻ったのは、午後10時ころでした。
徳川家茂にとっては、精神的に辛い1日だったことでしょう。
この後も、長州藩は、石清水八幡宮(わしみずはちまんぐう)と大和への行幸を画策し、朝廷を操って、倒幕へと突き進もうとしていました。
なお、上賀茂神社と下鴨神社の詳細については以下のページを参考にしてみてください。