京都市山科区と左京区の堺に蹴上(けあげ)という地名があります。
蹴上の名は、平安時代末期に牛若丸こと源義経が、この地で起こした事件が由来となっており、今もそれを伝えるお地蔵さんがインクラインの広場に残っています。
ところで、義経はどんな事件を起こしたのでしょうか。
鎌田正近との出会いで運命が変わる
牛若丸は、源義朝と常盤御前(ときわごぜん)との間に生まれました。
父の義朝は、平治の乱(1159年)で平清盛に敗れ、京都から東国へ落ちのびようとしましたが、途中、尾張の国で長田忠致(おさだただむね)の裏切りにあい、従者の鎌田正清らとともに謀殺されます。
京都に残された常盤御前は、牛若丸と彼の2人の兄を連れて、平清盛のもとに出頭しました。
そこで、3人の子供は出家することを条件に命を助けられ、後に牛若丸は、鞍馬寺に預けられることになります。
大きくなった牛若丸は、鞍馬寺で遮那王(しゃなおう)と名乗っていました。
ある日、遮那王を訪ねてひとりの僧が鞍馬寺を訪れます。
その僧は、鎌田正清の子の正近でした。
正近は、遮那王が源氏の棟梁であった源義朝の子であること、義朝が平清盛に平治の乱で敗れこの世を去ったことなどを伝えます。
事実を知った遮那王は、鞍馬寺を抜けて京都を去り、将来、平家を倒すことを誓いました。
奥州平泉へ向かう途中に事件発生
遮那王が、京都を抜け出し、奥州平泉の藤原秀衡のもとに向かうのを助けた商人が、金売り吉次でした。
吉次は、頻繁に奥州と京都を行き来しており、京都にも邸宅がありました。
遮那王は、首途八幡宮(かどではちまんぐう)で旅の安全を祈願し、安元3年(1177年)に吉次とともに京都を出発します。
遮那王一行が、日ノ岡峠の清水に差し掛かると、向こうから平家武者とその従者9名がやってきました。
ここで事件発生です。
遮那王が、平家武者とすれ違った時、従者の馬が泥を蹴り上げて、それが彼の衣にかかってしまいました。
これに立腹した遮那王は、従者9名を斬り捨て、平家武者の鼻と耳をそぎました。
この事件以降、当地は蹴上と呼ばれるようになったそうです。
インクラインの広場の義経大日如来
遮那王に斬られた9人の菩提は、村人たちによって弔われ、9体の石仏が祀られました。
以前は、九体町という地名が残っていましたが、それは、この9体の石仏を祀ったことが由来です。
現在、石仏は3体だけ残っており、そのうちのひとつが、インクラインの広場にあります。
この石仏は、義経大日如来といいます。義経地蔵とも呼ばれていますね。
石仏の前には、「義経大日如来」と刻まれています。
歴史上の人物の中でも人気のある源義経ですが、このような残忍な事件を起こしていたとは驚きですね。
なお、現存する他の2体の石仏は、「わたしの清秀庵」というWEBサイトの京における義経、誕生から奥州旅立ちまでの史蹟を巡るのページで紹介されていますので、ご覧になってください。
2014年1月1日追記:上記サイトは閉鎖しています。