江戸幕府が、慶応4年(1868年)に鳥羽伏見の戦いで新政府軍に負けたことで、約700年続いた武家政治が終わりました。
倒幕の機運は、坂本竜馬が薩摩藩と長州藩を結びつけた薩長連合(1866年)以降、急速に高まることになりますが、その3年前の文久3年(1863年)8月にも討幕を企てた事件が起こっています。
大和行幸と天誅組の変
文久3年8月17日に大和の国で事件が起こりました。
その事件は、後に天誅組の変と呼ばれることになります。
長州系の公卿の三条実美(さんじょうさねとみ)らは、孝明天皇の大和行幸を画策し、幕府討伐のために挙兵しようとしていました。
その先鋒として、大和に先乗りしたのが、吉村寅太郎らが率いる天誅組です。
天誅組は血気盛んな者達で構成されていたため、暴発する危険がありました。
そのため、三条実美は彼らの盟友の平野国臣(ひらのくにおみ)を後から大和に遣わし、暴発しないように説得させようとします。
しかし、時すでに遅く、平野が到着した時には、天誅組は五条代官所を襲撃し代官らを曝し首としていました。
これを見た平野は、もはや行くところまで行くしかないと思い、彼らと行動を共にすることを誓います。
ところが、天誅組が代官所を襲撃した翌日の8月18日に京都でクーデターが起こります。
なんと京都政界を牛耳っていた長州藩と三条実美ら7人の公卿が京都から追放されてしまったのです。
当然、孝明天皇の大和行幸もとりやめとなり、天誅組は孤立してしまいました。
この後、天誅組は諸藩の討伐軍によって壊滅させられることになります。
平野国臣も生野で決起
京都でのクーデターを知った平野は、すぐに京都に引き返し、巻き返しを図ります。
しかし、時すでに遅く、京都での巻き返しは不可能となっていました。
そこで、平野は、大和の天誅組と呼応するために但馬国の生野で決起しようとします。
ところが、平野が決起しようとした時には天誅組は壊滅していたため、彼は決起を思い止まろうと同士を説得しますが、結局、強硬派に押し切られる形で決起することとなりました。
平野は、天誅組と同じように、まずは10月12日に代官所を占拠、そして、兵を募集し、農民たち2,000人ほどを味方とします。
これに対して幕府も、天誅組の変の後だったため対応が早く、諸藩が平野達の追討のために出動しました。
ここでも平野は、決起を中止した方がいいと仲間を説得しますが、同士の河上弥市らの強硬派に押し切られてしまいます。
そして、10月13日夜に事件が起こります。
なんと、幹部クラスの沢宣嘉(さわのぶよし)が夜逃げしてしまったのです。
これを知った農民達は、平野らに騙されたと騒ぎ出し、彼らを攻撃し始めます。
平野は、ここから逃げ出しましたが、途中で豊岡藩兵に捕まり京都に護送されます。
そして、農民に囲まれた河上弥市らは自害して果てました。
六角獄舎
平野国臣が護送されたのは、京都市中京区の六角獄舎でした。
六角獄舎には、天誅組の変で捕えられた水群善之祐(にごりぜんのすけ)らも投獄されていました。
平野が投獄されている間に京都では池田屋事件が起こり、長州系の浪士達が新撰組によって斬られたり捕えられたりします。
そして、池田屋事件で捕えられた古高俊太郎らも六角獄舎に投獄されました。
池田屋事件の約1ヶ月後の元治元年(1864年)7月、長州藩兵が、京都に乱入する蛤御門の変が起こりました。
この時、六角獄舎に投獄されている浪士達は、京都所司代の役人によって、混乱に乗じて逃げ出すことを警戒され、処刑されました。
そして、平野らの遺体は、京都西刑場に埋められました。
それから月日が経ち、明治10年(1877年)にこの地から姓名を朱書した瓦片と人の骨が見つかります。
その瓦片の姓名から、人骨は天誅組の変、生野の変、池田屋事件で投獄された者達だとわかりました。
そして、彼らの遺骨は、京都市上京区の竹林寺に埋葬されました。
なお、生野の変については下記のWEBサイトで詳しく解説されていますので、ご覧になってください。
生野の変
2012年4月6日追記:上記WEBサイトは閉鎖しています。
また、六角獄舎については、「新撰組探索」さんの下記ページで詳しく紹介されています。
六角獄舎の悲劇
2014年7月4日追記:上記WEBサイトは閉鎖しています。
竹林寺については、下記ページを参考にしてみてください。