江戸幕府を開いたのは徳川家康ですが、幕府の基盤が安定したのは3代将軍の家光の頃とされています。
家光は2代将軍秀忠の次男だったのですが、長男が早世したため幼い頃から世継ぎに決められていました。
その徳川家光を育てたのは、乳母の春日局(かすがのつぼね)でした。
斎藤利光の三女
春日局は、もとは福という名でした。
福は、斎藤利光の三女として誕生します。
斎藤利光は明智光秀の家臣でした。
斎藤利光は、本能寺の変で明智光秀が織田信長を攻めた時にも活躍しましたが、その後の山崎の戦いで明智光秀が羽柴秀吉に敗れたため処刑されてしまいます。
その後、福は母方の実家である稲葉家に引き取られ、稲葉正成の妻となります。
そして、稲葉家は小早川家に仕えることになり、関ヶ原の戦いでは小早川秀秋を東軍に寝返らせる働きをしました。
ところが、小早川秀秋が後継ぎのないまま亡くなったため小早川家は幕府によって取り潰されます。
稲葉正成も浪人となり、福とともに貧しい暮らしをすることになりました。
徳川の世となると、家康は孫の家光の乳母を探し始めます。
幕府は教養のある女性を募集しており、それに福が応募したところ、見事に乳母として採用されます。
その後、福は家光を立派な3代将軍に育てたのでした。
妙心寺塔頭の麟祥院
京都市右京区の妙心寺境内に麟祥院(りんしょういん)というお寺が建っています。
麟祥院は、妙心寺の塔頭で、福こと春日局の菩提寺です。
創建されたのは寛永11年(1634年)のことで、徳川家光が春日局の追福を願って碧翁愚完(へきおうぐかん)を開祖として木辻菖蒲小路に香華所(こうげしょ)として建立しました。
幕府から寺領200国を与えられ、また、歴代住職は黒衣のまま江戸城白書院の出入りを許されたと言われています。
現在の妙心寺境内に移ってきたのは、明治30年(1897年)のことです。
山門の脇には、麟祥院が春日局の菩提寺であることを示す石柱が立っています。
ちなみに春日局の供養塔は左京区の金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)にあります。
徳川家光は、弟の忠長と世継ぎ争いとなりましたが、春日局が徳川家康にそのことを訴えたところ、家康は家光を正式な世継ぎであると宣言したと伝えられています。
また、金戒光明寺の北隣の真如堂には、春日局の父斎藤利光のお墓もあります。
私が麟祥院を訪れたのは夏だったので、参道わきにハスの鉢が並べられていました。
普段は訪れる人が少ないため、麟祥院が春日局の菩提寺であることは、あまり知られていないのではないでしょうか。
なお、麟祥院の詳細については以下のページを参考にしてみてください。