明治維新に思想的に大きな影響を与えた横井小楠の最期の地

明治維新の実現に貢献した人はたくさんいます。

坂本竜馬、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、高杉晋作など、数え上げるときりがありませんね。

上にあげた人物は、政治を直接動かそうとした人ばかりなので、歴史的にも非常に有名です。

でも、彼らが、明治維新の実現のために行動し始めたのには、必ず思想的なきっかけがあります。

西郷隆盛と大久保利通は島津斉彬(しまづなりあきら)の影響を受けていますし、高杉晋作も吉田松陰の影響を受けています。

坂本竜馬も様々な人の影響を受けています。彼に影響を与えた人物の中には横井小楠(よこいしょうなん)もいますね。

越前福井藩に仕える

横井小楠は、肥後出身の朱子学者です。

小楠は、藩校の時習館に学び、江戸に留学を許されるほどよく勉強をしました。

彼は、肥後藩の藩政改革のために藩上層の贅沢をやめること、農村を復興すること、特権商人を藩権力から切り離すことを「時務策」の中で説きましたが、これが、政治批判だと攻撃されます。

その後、小楠は肥後藩を去り越前福井藩の松平春嶽(まつだいらしゅんがく)に仕えることになります。

松平春嶽は開明的な藩主で、小楠の言うことによく耳を傾けました。

小楠が、将軍の上洛、参勤交代の廃止、大名の妻子を国元に帰すこと、身分が低くても優れた人材を幕府の役人に選ぶこと、海軍をつくることなどをまとめた「国是7条」は、幕政改革にも採り入れられました。

後に坂本竜馬が起草した船中八策の中にも、国是7条の内容が見られます。

明治新政府にも登用される

横井小楠の頭脳は、明治新政府も必要とします。

小楠は、明治元年(1868年)に新政府の参与となり、これからの活躍が期待されていました。

しかし、明治になったとは言え、小楠が開国を進めようとすることに反対する人々が、まだまだ多くいました。

横井小楠は、明治2年正月5日の御所参賀の帰りに外国人を日本から追い出せという攘夷(じょうい)の思想を持った十津川郷士に襲撃され、命を落としています。

享年61歳。

横井小楠が襲撃されたのは、京都御所の南東に建つ下御霊神社(しもごりょうじんじゃ)の近くです。

現在、その場所には、「横井小楠殉節地」と刻まれた石柱が立っています。

横井小楠殉節地

横井小楠殉節地

石柱は、車道に近い歩道の端にあり、道行く人々は視界に入っていても、全く気にせずに通り過ぎていきます。

坂本竜馬に大きな影響を与えた横井小楠ですが、あまり知られていないので、彼の最期の地に石碑があっても興味を持たれないのでしょうね。

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