新撰組結成の地・八木邸

幕末の京都の治安維持にあたった組織として有名なのが新撰組。

新撰組が結成されたのは、文久3年(1863年)3月ですが、その舞台となったのが中京区の壬生に建つ八木邸です。

将軍・徳川家茂上洛の警衛のため浪士組結成

新撰組といえば、近藤勇(こんどういさみ)、土方歳三(ひじかたとしぞう)、沖田総司といった隊士が有名です。

しかし、新撰組結成のきっかけを作った人物は、これらの隊士ではなく、清河八郎(きよかわはちろう)です。

新撰組が結成された文久3年は、14代将軍の徳川家茂(とくがわいえもち)が、外国人を日本から追い払うという意味の攘夷(じょうい)を朝廷に約束するために京都に上洛することとなっていました。

しかし、京都では、この頃、頻繁に天誅と称して暗殺が繰り返されていたことから、将軍が上洛する際には、その警衛にあたる者が必要となります。

そこで、幕府は50人程度の浪士を集めて、将軍の警衛にあてようとしました。

その浪士募集の中心となったのが、清河八郎だったのです。

清河は、当初の予定であった50人を大幅に上回る約350人を募集し、審査の結果、250人ほどに絞りました。

この250人は、浪士組と呼ばれ、その中には、近藤勇や芹沢鴨(せりざわかも)といった後に新撰組の主力メンバーとなる者も含まれていました。

そして、文久3年2月に浪士組は、上洛することとなったのです。

本性を現した清河八郎

京都に到着した浪士組は、大人数だったことから、いくつかのグループに分けて、京都に滞在することとしました。

この時、近藤勇の一派8人と芹沢鴨の一派5人は、八木源之丞の邸に宿泊します。

しかし、浪士組が京都に到着して間もなく事件が起こります。

浪士組結成の中心である清河八郎が、浪士組のメンバーを集めて、演説を始めたのです。

その内容は、将軍は、天皇を中心とした尊王と攘夷のために上洛したのだから、これからは、我々浪士組も尊王攘夷のために働くことにするといったものでした。

そして、しばらくして後、清河は、浪士組はいったん江戸に引き上げると言いだしたのです。

この頃、江戸の方では、薩摩藩が大名行列の前を横切ったイギリス人を生麦村で斬り捨てたことから、イギリス艦隊が横浜港に停泊し、幕府に賠償金を要求していました。

そこで、清河は、浪士組を使って横浜港にいるイギリス人を日本から追い返そうと企んだのです。

この清河の計画を伝えられた浪士組のメンバーは、彼とともに江戸に引き上げることにしたのです。

すなわち、清河の目的は最初から幕府の資金を使って、尊王攘夷のためのメンバーを集めることにあったのです。

また、幕府としても清河が京都で尊王攘夷のために働くと言いだしたことから、このまま京都に置いておくのは危険と判断し、浪士組をいったん江戸に戻すことにします。

しかし、幕府には上洛した将軍の警衛という目的もあったので、浪士組の中から再度、将軍警衛のため京都に残るメンバーを募集します。

その時、募集に応じたのが、近藤一派と芹沢一派の13人だったのです。

なお、清河八郎は、江戸に戻った後、麻布一ノ橋で佐々木唯三郎(ささきたださぶろう)らによって、暗殺されました。

京都守護職会津藩お預かりとして新撰組結成

京都に残った浪士組のメンバーは以下の通りです。

近藤一派

  1. 近藤勇
  2. 土方歳三
  3. 山南敬助
  4. 井上源三郎
  5. 沖田総司
  6. 原田左之助
  7. 永倉新八
  8. 藤堂平助

芹沢一派

  1. 芹沢鴨
  2. 新見錦(にいみにしき)
  3. 平間重助
  4. 野口健司
  5. 平山五郎

京都に残った13人でしたが、全く収入がありません。

そこで、八木源之丞から米を借りて食いつないでいました。

しかし、いつまでも八木家に頼ることもできなかったので、当時、京都守護職として治安維持にあたっていた会津藩とコネのある芹沢が、当藩に掛け合い、京都守護職会津藩お預かりという身分を得ます。

こうして文久3年3月に新撰組が誕生したのです。

新撰組最初の内部抗争

新撰組は、京都の治安を維持するために働いていましたが、必ずしも全員がそういう訳ではありませんでした。

特に芹沢一派は、祇園での飲み代や商家からの借金を踏み倒したりしていました。

また、芹沢は大和屋庄兵衛にお金を借りに行った際、断られたことから、大砲を持ち出し、土蔵に向かって撃ったこともあったのです。

このような芹沢一派の乱暴を見過ごすことができなかったため、近藤一派は彼らを処分することにしました。

まず、最初に処分されたのは新見錦。

新見は、祇園の「山の尾」という店にいたところを土方歳三らによって切腹させられます。

そして、芹沢鴨、平山五郎は八木邸で寝ているところを近藤らに斬られますが、同じ八木邸で寝ていた平間重助はその場を逃れて、行方をくらましました。

この時、野口五郎は、八木邸にいませんでしたが、後日、切腹させられています。

これが、新撰組最初の内部抗争ですが、その後も新撰組を離脱した伊東甲子太郎(いとうかしたろう)らとの内部抗争も起きています。

八木邸拝観

新撰組結成の地で最初の屯所となった八木邸は、今も残っており、拝観することができます。

新撰組最初の屯所・八木邸

新撰組最初の屯所・八木邸

場所は、阪急電車の大宮駅と京福電車の四条大宮駅から西に約8分ほど歩いたあたりです。

拝観料は、1,000円と高めですが、部屋の中をいろいろと解説してくれます。

芹沢鴨が襲われた部屋も見ることができ、その時の刀傷が隣の部屋の鴨居に残っています。他に柱にも刀傷が残っていたそうですが、拝観の際、多くの方が触ったため消えてしまったそうです。

なので、鴨居の刀傷は触ることができません。

また、芹沢鴨は、寝ているところを襲われて隣の部屋に逃げた際、机につまずいて転んだところをとどめを刺されたそうです。その時の机が当時と同じところに置かれていました。

八木邸のように当時のまま保存されている史跡に訪れると歴史を身近に感じることができますね。

拝観後は、隣の「京都鶴屋 鶴寿庵」で抹茶と屯所餅をいただくことができます。八木邸の拝観券にはお食事券も付いていますので、追加の費用は必要ありません。

屯所餅は、小さ目の大福といった感じです。

抹茶は、本格的なお茶碗でいただくことができます。見た目はミルク入りのグリーンティーのようです。もちろん、抹茶なので甘くはありません。すっきりとした苦味なので、後に残りませんでした。

その他の新選組屯所

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