新日吉神宮の梅・2013年2月20日の状況
京阪電車の七条駅から東に15分ほど歩いた辺りに新日吉神宮(いまひえじんぐう)が建っています。 新日吉神宮は、平安時代末期に後白河法皇が創建したのが始まりです。 その本殿の隣に飛梅天満宮という社も建っており、こちらも後白河法皇が創建しています。 飛梅天満宮には、梅の木が植えられているので、そろそろ開花する頃ではないかと思い、2月20日に見に行ってきました。
観光名所、史跡、四季折々の風景を写真とともに紹介するブログ。※アフィリエイト広告を利用しています。
京阪電車の七条駅から東に15分ほど歩いた辺りに新日吉神宮(いまひえじんぐう)が建っています。 新日吉神宮は、平安時代末期に後白河法皇が創建したのが始まりです。 その本殿の隣に飛梅天満宮という社も建っており、こちらも後白河法皇が創建しています。 飛梅天満宮には、梅の木が植えられているので、そろそろ開花する頃ではないかと思い、2月20日に見に行ってきました。
2月20日に法住寺の梅を見た後、近くの智積院にも訪れました。 智積院は、梅の名所として知られており、境内には数十本の梅の木が植えられています。 境内に入るのに拝観料が必要ないので、誰でも気軽にお参りできます。 法住寺の梅は、まだ咲き始めたばかりでしたが、智積院には早咲きの梅があるので、それなりに楽しめるだろうと期待しながら、七条通を東に進むのでありました。
2月も下旬になると、そろそろ京都の各地で梅が良い具合に咲き始めているはず。 とは言え、まだまだ寒い日が続くので、どのくらい咲いているのかは、実際に見てみないことにはわかりません。 なので、こういう場合は、拝観料が必要ないところに梅の様子を見に行くのが良いでしょう。 ということで、2月20日に京都市東山区の法住寺の梅を見てきました。
毎年2月3日になると京都各地のお寺や神社で節分祭が行われます。 節分祭では、甘酒などが振る舞われるので、いろいろと歩き回っているだけで、お腹いっぱいになりますね。 2013年は、2月2日に交通神社、熊野神社、八坂神社に訪れてきました。
西郷隆盛、大久保利通とともに維新の三傑と呼ばれている木戸孝允(きどたかよし)。 京都市東山区の京都霊山護国神社(きょうとりょうぜんごこくじんじゃ)には、彼のお墓があります。 木戸孝允は、桂小五郎ともいい、こちらの名の方がご存知の方が多いようで、京都霊山護国神社の墓地へと進む途中にある案内板には、木戸孝允と桂小五郎は同一人物といった旨が書かれています。
京都市東山区の京都霊山護国神社(きょうとりょうぜんごこくじんじゃ)には、明治維新に貢献した志士たち1,356名が祀られています。 その多くが、明治維新を見る前に亡くなった志士たちなのですが、中には、明治維新を迎えた後に亡くなった志士の墓碑もあります。 長州藩士の大村益次郎もそのうちのひとりです。
京都市東山区の京都霊山護国神社(きょうとりょうぜんごこくじんじゃ)には、明治維新に貢献した志士たちの墓碑が多数あります。 その多くは、長州藩士や土佐藩士のものですが、それ以外の藩士の墓碑や招魂社もあります。 幕末史にあまり登場しませんが、鳥取藩では、明治維新に貢献した志士87人が、霊山の山頂に建つ鳥取藩招魂社に祀られています。
文久3年(1863年)8月に起こった天誅組の変は、後に倒幕の導火線となった事件として評価されるようになりました。 天誅組を率いたのは、土佐藩出身の吉村寅太郎で、京都市東山区の京都霊山護国神社(きょうとりょうぜんごこくじんじゃ)には、彼と天誅組の墓碑があります。
前回の記事では、京都霊山護国神社(きょうとりょうぜんごこくじんじゃ)の池田屋事件殉難者の墓碑を紹介しました。 池田屋事件は、元治元年(1864年)6月に起こり、長州系の浪士たちが新撰組に斬られたり捕縛されたりしました。 それに怒りを覚えた長州藩が、翌月に大挙して京都に攻め上り、幕府軍と戦ったのが禁門の変です。京都御所の蛤御門(はまぐりごもん)が激戦地であったことから蛤御門の変とも呼ばれています。 その時の殉難者の墓碑も京都霊山護国神社にあります。
元治元年(1864年)6月に起こった池田屋事件では、長州藩士を中心に多くの志士が新撰組と会津藩によって斬られたり、捕縛されたりしました。 池田屋事件は、明治維新を1年遅らせることになったといわれているように幕末史における重大事件のひとつに数えられます。 その時の殉難者たちのお墓が、京都市東山区の京都霊山護国神社(きょうとりょうぜんごこくじんじゃ)にあります。