藤原氏の栄華の跡・東三条院址
京都市中京区の押小路通と釜座通が交差するあたりに東三条院址(とうさんじょういんし)の石碑を発見しました。 腰よりも低い石碑なので、普通なら見向きもせずに通り過ぎてしまうのですが、近くに京都市の説明書が立っていたので、近寄ってじっくりと観察することにしました。 ここはどうやら平安時代に貴族の屋敷があった場所のようです。
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京都市中京区の押小路通と釜座通が交差するあたりに東三条院址(とうさんじょういんし)の石碑を発見しました。 腰よりも低い石碑なので、普通なら見向きもせずに通り過ぎてしまうのですが、近くに京都市の説明書が立っていたので、近寄ってじっくりと観察することにしました。 ここはどうやら平安時代に貴族の屋敷があった場所のようです。
いつの時代でもかっこいい男性は、女性の憧れですよね。 さらに歌がうまいと、好感度がアップします。 しかも、家柄が良かったりすると、なんかもう別次元に住む遠い存在のように感じ、近くに寄るのもためらわれてしまいますね。 現代にもこういった有名人の方がいらっしゃいますが、歴史上にも、容姿端麗、歌がうまい、家柄が良いといった男性が何人もいました。 平安時代前期でいうと、在原業平(ありわらのなりひら)がそうですね。
京都市左京区の真如堂境内に新長谷寺(しんはせでら)という小さなお寺が建っています。 新長谷寺は、洛陽三十三所観音霊場の第五番札所です。 創建は平安時代前期で、藤原山蔭(ふじわらのやまかげ)が建立しました。 山蔭が新長谷寺を建立したのは、ある出来事が理由と伝えられています。
平安時代中期の陰陽師(おんみょうじ)と言えば、安倍晴明。 夢枕獏の小説「陰陽師」の中で、安倍晴明は、都に跋扈(ばっこ)する魔物たちを呪法によって退治するモンスターハンターのように描かれています。 そんな安倍晴明も人間なので、やがて寿命が訪れます。 彼は、寛弘2年(1005年)9月26日に85歳でこの世を去ったと伝えられています。
ある日、四条通を西から東に向かって歩いていました。 ここは、車やバスの通りが多く、あまり京都らしさを感じることができない道路です。 でも、こういったところにも歴史を感じることができる場所があるものです。 西洞院通の交差点に差し掛かった時、平安時代の小野小町の史跡があるのに気づきました。
京都市山科区と左京区の堺に蹴上(けあげ)という地名があります。 蹴上の名は、平安時代末期に牛若丸こと源義経が、この地で起こした事件が由来となっており、今もそれを伝えるお地蔵さんがインクラインの広場に残っています。 ところで、義経はどんな事件を起こしたのでしょうか。
京都市左京区を流れる岡崎疎水に熊野橋という橋が架かっています。 場所は、平安神宮から冷泉通を西に300メートルほど歩いた辺りです。 この熊野橋の西と東には、平安時代の建築物の跡を示す石碑があります。 西にあるのは、白河南殿跡の石碑で、東にあるのは得長寿院跡の石碑です。 偶然なのか必然なのか、白河南殿にあった建物は父が、得長寿院は子が建てたものです。
京都市北区の西賀茂を歩いていると、大将軍社と刻まれた石柱を発見しました。 大将軍社は、平安遷都(794年)の際に桓武天皇が王城鎮護のために都の四方の隅に祀った社 です。 そのうちのひとつが西賀茂の地にも存在していたんですね。
地下鉄烏丸御池駅から地下鉄四条駅辺りまでは、多くの企業のオフィスや金融機関が建ち並ぶビジネス街となっています。 なので、この付近は、スーツを着たビジネスマンの方がたくさん行き交っており、観光客の方は少なめです。 さすがにビジネス街で見かける方は、どなたも忙しそうです。 でも、上記2つの駅の間にある烏丸三条(からすまさんじょう)は、ビジネスマンの方のちょっとした憩いの場となっています。
平安時代中期。 この時代は、藤原道長とその子の頼通が権勢を振っていました。 藤原頼通と言えば、宇治市にある平等院を建てたことで知られていますが、そのモデルと言われているのが、道長が建てた法成寺(ほうじょうじ)でした。 平等院は世界遺産に登録されているほど立派なお寺なので、法成寺も負けず劣らず豪華なお寺なのでしょう。 境内には、金堂、釈迦堂、薬師堂、五重塔など壮麗な建物がいっぱい。 これだけの建物があるお寺は、一度は見ておきたいところです。