平安時代一覧

二度の嘘が功を奏した宇治川先陣争い

平家が都を落ちた後、入京した木曽義仲は、法住寺殿を焼き打ちし、後白河法皇を五条に幽閉しました。 これによって義仲が時の権力者になったかに思えましたが、西の平家、裏切り者の叔父の源行家など、義仲にとって邪魔な存在は消えてはいませんでした。 それどころか、鎌倉の源頼朝が、弟の範頼と義経を木曽義仲討伐のために京都に向かわせていたのです。

木曽義仲の法住寺殿焼き打ち

寿永2年(1183年)7月に平家が都を落ち、代わりに入京したのが木曽義仲とその叔父の源行家でした。 この時、一番喜んだのはおそらく後白河法皇だったのではないでしょうか。 なぜなら、平家は都を落ちて西国に向かうことを決定した際、後白河法皇を都から連れ出そうとしていたからです。 その計画を知った法皇は、平家の探索から逃れるためにどこかへと姿をくらまし、息を殺して危険が過ぎ去るのを待っていました。 平家が都を去り難を逃れた法皇でしたが、実はこの後、更なる問題に直面することとなります。

平家の運命を変えた平清盛の二人の母

平安時代末期、武士が政治の世界で活躍するきっかけを作ったのは、平清盛でした。 清盛を生んだ母の名は、祇園女御(ぎおんのにょうご)。 また、清盛には、父の忠盛の再婚相手である池禅尼(いけのぜんに)という母親もいました。 この二人の母親が、後に平家の運命を大きく変えることになります。

高倉天皇と小督局が眠る地・清閑寺

平安時代末期、平家でない者は人でないと言われていた時代。 時の権力者は、平清盛でした。 清盛は、娘の徳子を高倉天皇に嫁がせ、後に徳子は安徳天皇を生みます。 しかし、この頃、高倉天皇は一人の女性を寵愛していました。 その女性とは、小督局(こごうのつぼね)です。