江戸時代一覧

ビジネス街になっている与謝蕪村の終焉の地

現在、京都市下京区はビジネス街となっています。 京都駅があったり、金融機関が建ち並ぶ四条烏丸があったりと、京都市の経済を支えている地域と言っても過言ではないでしょう。 もちろん、中京区、上京区、南区、その他様々な地域が京都市の経済に貢献していることは言うまでもありません。 さて、四条烏丸の交差点から南西に5分ほど歩いた「仏光寺通烏丸西入る」に江戸時代の文化人の与謝蕪村の邸宅跡の石碑があります。 ビジネス街でも、こういった史跡に巡り会えるのが京都の良いところであります。

雨月物語を書いた上田秋成のお墓がある西福寺

京都市左京区にある南禅寺の参道脇の狭い道を北に1分ほど歩くと、西福寺というお寺が建っています。 浄土宗の小さなお寺で、普段は門が閉まっていて中に入ることはできません。 なので、観光で訪れるお寺ではありません。 でも、ここには江戸時代の読本系の作家で、雨月物語の著者である上田秋成のお墓があるということなので、先日、立ち寄ってみました。

聖光寺の入り口にある天野屋利兵衛の石碑

京都市下京区の寺町四条は、電気店街として有名です。 寺町通の西側に家電量販店やパソコンショップが並んでおり、東側にはお寺や神社が並んでいます。 古いものと新しいものが向かい合っている姿は何とも不思議な光景ですね。 古いものが建ち並ぶ東側には、赤穂浪士の討ち入りに協力したことで知られる天野屋利兵衛のお墓がある聖光寺(しょうこうじ)も建っています。

保津峡を開削した角倉了以の屋敷跡

京都府亀岡市の保津峡を川下りする保津川下りは、観光客の方に人気があります。 保津川下りは、JR亀岡駅近くから嵐山の渡月橋までの約16kmを2時間かけて下ります。 このような遊びができるのは、江戸時代に角倉了以(すみのくらりょうい)が保津峡を開削してくれたからなんですよね。

南禅寺の再興に活躍した以心崇伝

現在、京都にはたくさんのお寺や神社があります。 寺社には、京都らしい建築物が多いので、国内だけでなく海外からもたくさんの旅行者が観光で訪れますね。 私も、よく京都のお寺や神社に観光目的で参拝することがあります。その時は、せわしない日常を忘れて心がスッキリとするというか、気持ちがとても和むんですよね。 このようなすがすがしい気持ちにさせてくれる寺社ですが、その中には、ドロドロの政治の世界と関わってきたからこそ、今日まで存続しているところがいくつもあります。 京都市左京区に建つ南禅寺も、そのひとつと言えるでしょう。

近世の京都の物流を支えた高瀬川

2014年は、大坂冬の陣から400年目にあたります。 大坂冬の陣は、翌年に起こった夏の陣で豊臣家が亡びていることから、歴史的にみて重大事件と言えますね。 大坂冬の陣はとても有名な事件ですが、京都では、同じ年の慶長19年(1614年)に物流に革命が起こりました。 それは、高瀬川が完成したことです。

1発の銃弾も撃たずにすべてを失った長宗我部盛親の墓がある蓮光寺

京都市下京区に蓮光寺(れんこうじ)というお寺があります。 蓮光寺は、平清盛ゆかりの駒止地蔵が安置されていることで知られていますが、他にも歴史上の人物と縁があります。 その歴史上の人物とは、土佐の戦国大名であった長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)です。

本阿弥光悦が前半生を過ごした京都市上京区・本阿弥光悦京屋敷跡

江戸時代前期の芸術家の本阿弥光悦ゆかりのお寺が、京都市北区の鷹峯(たかがみね)にあります。 そのお寺は光悦寺です。 本阿弥光悦は、近衛信尹(このえのぶただ)、松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)とともに寛永の三筆と称されるほど書がうまかったということですが、他にも陶芸や蒔絵にも才能を発揮したことで知られています。 そういった芸術の才能が育まれたのは、やはり、鷹峯といった景観の美しい地で生まれ育ったからなのかなと思ってしまいますが、実は、彼が鷹峯に移ったのは、58歳の時で、若いころは、現在の京都市上京区に住んでいました。

江戸時代の豪商・尾州茶屋家の屋敷跡

京都市中京区の新町通蛸薬師下ルに白い壁の倉庫のような建物があります。 この辺りには、企業の建物が並んでいるので、おそらく、それらのひとつと思います。 その白壁の建物の近くに立札があるのに気づいたので、そこに何が書いてあるのか読んでみることにしました。 すると、この地は、江戸時代の京都の豪商・茶屋四郎次郎と茶屋新四郎の屋敷跡だったことがわりました。