祇園祭後祭山鉾巡行―橋弁慶山、北観音山・2014年

2014年から祇園祭の山鉾巡行が17日の前祭(さきまつり)と24日の後祭の2回行われることになりました。 以前は、17日に山鉾巡行が1度だけ行われていたのですが、49年ぶりに後祭が復活したことで、山鉾巡行も2回行われることになったんですよね。 後祭で巡行する山と鉾は10基。 前祭では、左回りに巡行しますが、後祭では逆の右回りに巡行します。 私は、午前10時40分頃、四条河原町に到着しました。 そろそろ後祭の山鉾巡行の先頭が四条河原町に姿を現す時間です。

祇園祭前祭山鉾巡行―船鉾・2014年

7月17日の祇園祭前祭(さきまつり)の山鉾巡行を四条河原町で見てきたわけですが、いよいよ最後となる23基目の船鉾(ふねほこ)が交差点に近づいてきました。 この日は、とても暑かったので、途中で帰ろうかとも思ったのですが、なんとか最後まで観覧することが出来ました。 とは言っても、観覧し始めた時には半分以上の山と鉾が辻回しを終えていたんですけどね。

祇園祭前祭山鉾巡行―白楽天山、保昌山、郭巨山・2014年

7月17日に四条河原町に祇園祭の前祭(さきまつり)山鉾巡行を観覧に行きました。 月鉾まで辻回しが終わったところで、ちょっと一休みといった感じで、小ぶりの山が3基、四条河原町の交差点にやってきました。 とは言え、山を曳いている方たちは、決して楽ではないでしょうね。

祇園祭前祭山鉾巡行―鶏鉾、木賊山、四条傘鉾・2014年

2014年から祇園祭は、前祭(さきまつり)と後祭(あとまつり)の2回、山鉾巡行が行われることになりました。 前祭は7月17日、後祭は7月24日が巡行の日です。 これまでは、7月17日だけ山鉾巡行が行われており、それが本来の姿だと思っていた方も多いでしょうが、実は前祭と後祭の2回、山鉾巡行が行われるのが本来の祇園祭の姿なんですよね。 というわけで、7月17日に前祭の山鉾巡行を観覧しに四条河原町の交差点に行ってきました。

寺町二条にあった藤原定家の京極邸

鎌倉時代に藤原定家という文化人がいました。 歴史の教科書にも出てくる人物なので、その名くらいは聞いたことがあるでしょう。 藤原定家と言えば、小倉百人一首を選んだ人物、新古今和歌集の編纂に関わった人物として有名ですね。 嵐山には、時雨殿(しぐれでん)という小倉百人一首のミュージアムがあり、その辺りには、藤原定家が小倉百人一首を選んだ時雨亭がありました。 なので、藤原定家ゆかりの地として嵐山がよく知られていますが、実は、彼の邸宅は、京都市中京区の寺町二条にあったんですよね。

本阿弥光悦が前半生を過ごした京都市上京区・本阿弥光悦京屋敷跡

江戸時代前期の芸術家の本阿弥光悦ゆかりのお寺が、京都市北区の鷹峯(たかがみね)にあります。 そのお寺は光悦寺です。 本阿弥光悦は、近衛信尹(このえのぶただ)、松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)とともに寛永の三筆と称されるほど書がうまかったということですが、他にも陶芸や蒔絵にも才能を発揮したことで知られています。 そういった芸術の才能が育まれたのは、やはり、鷹峯といった景観の美しい地で生まれ育ったからなのかなと思ってしまいますが、実は、彼が鷹峯に移ったのは、58歳の時で、若いころは、現在の京都市上京区に住んでいました。

江戸時代の豪商・尾州茶屋家の屋敷跡

京都市中京区の新町通蛸薬師下ルに白い壁の倉庫のような建物があります。 この辺りには、企業の建物が並んでいるので、おそらく、それらのひとつと思います。 その白壁の建物の近くに立札があるのに気づいたので、そこに何が書いてあるのか読んでみることにしました。 すると、この地は、江戸時代の京都の豪商・茶屋四郎次郎と茶屋新四郎の屋敷跡だったことがわりました。