少しずつイノシシが増えていく護王神社

京都御苑の西に建つ護王神社。 この神社は、境内にたくさんのイノシシがいることで有名です。 お参りに行くたびにイノシシが増えていくので、訪れるのが楽しみな神社のひとつです。 京都の街を散策しやすい気候となった秋のある日、護王神社に参拝してきました。

相国寺の宗旦稲荷と弁財天

10月末に京都市上京区の相国寺に立ち寄りました。 特に拝観しようというわけではなかったのですが、近くを通りかかったので、境内に入った次第です。 相国寺には何度も訪れたことがあるのですが、意外に気付かずに素通りしていたところがいくつかありました。

京都御所一般公開2013年秋

2013年秋の京都御所の一般公開は、10月31日から11月4日まで。 毎年春と秋に行われ、そのたびに見に行ってますね。 ということで、今回もさっそく初日に京都御所を訪れました。 ここに来ると季節の移り変わりを感じるんですよね。

足利兄弟と護良親王との対立を深めた強盗事件

元弘3年(1333年)5月に六波羅探題が滅亡した後、足利高氏、千種忠顕(ちぐさたたあき)、赤松円心が京都に留まります。 まだ、後醍醐天皇の還幸前だったので、戦後の混乱から京都の治安が悪化することを防ぐためでした。 そして、足利高氏は、六波羅に奉行所を置き、弟の直義に強盗などの街の治安を乱す者たちの取り締まりを命じ、捕えたものには厳罰を与えるように指示しました。

後醍醐天皇の還幸を待ち望んだ東寺の見返りの松

元弘3年(1333年)5月に六波羅探題が滅亡しました。 隠岐の島から脱出し船上山(せんじょうせん)にあった後醍醐天皇は、この知らせを聞いて、5月23日に京都へ向けて出発します。 後醍醐天皇は、名和長年、塩谷高貞(えんやたかさだ)、朝山太郎らに警護され、5月26日に播磨の千本宿に到着、翌27日には書写山に行幸しました。

四条河原で討ち死にした北条時益

久我畷の戦いで名越高家を討ち取った赤松円心の軍勢は、その後、足利高氏、千種忠顕(ちぐさただあき)とともに3方向から六波羅探題を攻撃します。 六波羅探題にとっては、味方だと信じていた足利高氏が裏切ったことで、劣勢となります。 元弘3年(1333年)5月6日。 足利高氏の裏切りを知った京都市民は、都が戦場になることを恐れて逃げまどい、町は混乱していました。

枯山水庭園で見る紅葉は鮮やかさが増す

京都には、紅葉の名所がたくさんあります。 聞いたことがあるお寺や神社に行けば、まず紅葉を見ることができるでしょうね。 ただ、時期を外してしまって、色付き始めや見ごろ過ぎに行くと、本来きれいなはずのモミジが、イマイチだったなんてこともあります。 でも、時期を外してしまっても、割ときれいに紅葉を見れるところがあります。 それは、枯山水庭園がある紅葉の名所です。 枯山水庭園は、白砂と石組が中心のお庭なので、紅葉の赤色がより鮮やかに見えるんですよね。だから、少々、時期がずれても、まずまずきれいな紅葉を楽しむことができます。 今回の記事では、過去に私が訪れた枯山水庭園...

久我畷の戦いで佐用範家に討ち取られた名越高家

金剛山の千早城にたてこもる楠木正成の抵抗が思いのほか激しかったため、鎌倉幕府は、元弘3年(1333年)3月下旬に名越高家(なごしたかいえ)と足利高氏を鎌倉から出陣させることにしました。 これまで、仮病を使って出陣を拒んでいた足利高氏も今回は、執権の北条高時の命を拒否できず、妻子を人質に差し出して西へと向かうことになりました。 北条高時は、足利高氏がすすんで妻子を人質として差し出したことに大いに喜び、源義家より伝わる源氏の白旗を高氏に与えます。 名越勢と足利勢が上洛すれば、後醍醐天皇方の反乱も鎮まるはずと期待は膨らみます。

六波羅攻めのために千種忠顕が陣取った石清水八幡宮

元弘2年(1332年)に討幕を企てた後醍醐天皇は隠岐に流されました。 この時、天皇とともに隠岐に流された近臣には、一条行房と千種忠顕(ちぐさただあき)がいます。 隠岐に流された後醍醐天皇は、幕府の監視の中で、囚人として日々を送ることになりました。 しかし、幕府の警備の兵の中には、後醍醐天皇を隠岐から救い出し、京都に戻そうと計画している者たちがいました。