
生野の変の重要人物が眠る竹林寺
江戸幕府が、慶応4年(1868年)に鳥羽伏見の戦いで新政府軍に負けたことで、約700年続いた武家政治が終わりました。 武家政治の確立と終焉の地・鳥羽 倒幕の機運は、坂本竜馬が薩摩藩と長州藩を結びつけた薩長連合(1866年)以降、急速に高まることになりますが、その3年前の文久3年(1863年)8月にも討幕を企てた事件が起こっています。
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江戸幕府が、慶応4年(1868年)に鳥羽伏見の戦いで新政府軍に負けたことで、約700年続いた武家政治が終わりました。 武家政治の確立と終焉の地・鳥羽 倒幕の機運は、坂本竜馬が薩摩藩と長州藩を結びつけた薩長連合(1866年)以降、急速に高まることになりますが、その3年前の文久3年(1863年)8月にも討幕を企てた事件が起こっています。
幕末、吉村寅太郎という人物がいました。 天保8年(1837年)に土佐藩の庄屋の子として生まれた彼は、武市半平太の教えを受け、やがて、文久元年(1861年)に武市が結成した土佐勤王党に加わります。 その後、文久2年に脱藩して、尊王攘夷(天皇を敬い、外国人を日本から追い出すこと)のために働く目的で上洛しました。
治承元年(1177年)6月1日。 平家を倒そうと謀反を企てた者達が捕えられる事件が起こりました。 世に言う鹿ヶ谷(ししがたに)の変です。
平安時代末期、平家でない者は人でないと言われていた時代。 時の権力者は、平清盛でした。 清盛は、娘の徳子を高倉天皇に嫁がせ、後に徳子は安徳天皇を生みます。 しかし、この頃、高倉天皇は一人の女性を寵愛していました。 その女性とは、小督局(こごうのつぼね)です。
京都市右京区の嵐山には、世界文化遺産に登録されている天龍寺があります。 天龍寺は、春と秋の観光シーズンになると多くの方が拝観に訪れる人気の観光名所ですが、実は8回も焼失しています。 現在の天龍寺は、明治時代に再建されたもので、最後に焼失したのは幕末のことです。
幕末の文久3年(1863年)8月18日に京都の政界で大きな事件が起こりました。 その事件は、後に八月十八日の政変や禁門の政変と呼ばれることになります。
京阪電車の清水五条駅から五条通(国道1号線)を東に向かって、坂道を20分ほど歩いた場所に清閑寺というお寺が建っています。 清閑寺は、境内にある要石(かなめいし)から西の方角を眺めると、左右の山の間から京都の街が扇状に開けて見えることで有名です。 扇状に開けた京都市街の景色・清閑寺 閑静な境内から京都の街を眺めていると日常のストレスから解放されるように心が和んでいきます。 そんな穏やかな気持ちにさせてくれる清閑寺ですが、幕末には当時の政治に大きな影響を与える謀議が行われていました。
保元元年(1156年)に後白河天皇と崇徳上皇が争った保元の乱は、後白河天皇の勝利に終わりました。 そして、負けた崇徳上皇は、仁和寺で謹慎した後、讃岐国(香川県)に配流となります。
京都御苑内にある京都御所は、四方を壁で囲まれています。 この京都御所の壁の東北の角の折れ曲がった部分の屋根には猿がいます。 そのため、この辺りは猿ヶ辻と呼ばれています。
新撰組が京都に登場したのは、文久3年(1863年)です。 その翌年には、新撰組を有名にした池田屋事件や蛤御門の変が起こっています。 当時の新撰組は、壬生の八木邸を屯所としていましたが、やがて隊士が増えてくると手狭になったため、もっと広い場所に屯所を移転する必要が出てきました。 そこで、慶応元年(1865年)3月10日に第2の屯所に移転することになります。 その第2の屯所が、現在、世界遺産に登録されている西本願寺だったのです。