
新撰組を脱走した山南敬助が眠る光縁寺
慶応元年(1865年)2月21日。 ひとりの新撰組隊士が脱走しました。 その隊士の名は、山南敬助(やまなみけいすけ)。 山南敬助は、局長の近藤勇(こんどういさみ)に次ぐ総長の役職にありました。 組織ナンバー2の山南敬助が脱走したのは、何が原因だったのでしょうか。
観光名所、史跡、四季折々の風景を写真とともに紹介するブログ。※アフィリエイト広告を利用しています。
慶応元年(1865年)2月21日。 ひとりの新撰組隊士が脱走しました。 その隊士の名は、山南敬助(やまなみけいすけ)。 山南敬助は、局長の近藤勇(こんどういさみ)に次ぐ総長の役職にありました。 組織ナンバー2の山南敬助が脱走したのは、何が原因だったのでしょうか。
日本映画の父といわれているマキノ省三の像が京都市北区にあります。 なぜ、彼の像が京都市にあるのか。 それは、マキノ省三が、最初の撮影所を京都市に創設したことが理由です。
藤原定家、足利義政、伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)。 彼らには共通点があります。 それは、同じ場所にお墓があるということです。 3人のお墓があるのは、京都市上京区の相国寺です。
京都市左京区にある鞍馬寺の境内に鬼一法眼社(きいちほうげんしゃ)という神社が建っています。 鬼一法眼は、平安時代末期の陰陽師(おんみょうじ)で、義経記(ぎけいき)に登場する人物です。
京都市には海がないのに海水を焼いて塩を取る塩焼きが行われた場所が2つあります。 ひとつは西京区の十輪寺で、もうひとつは下京区の本覚寺です。 塩焼きが行われたのは、平安時代前期です。 十輪寺では在原業平(ありわらのなりひら)が、本覚寺では源融(みなもとのとおる)が塩焼きをしました。
京都市右京区の嵯峨野に小倉あん発祥の由来と書かれた説明書が立っている畑があります。 その畑の近くには、いつごろ置かれたものなのかわかりませんが、土佐四天王と呼ばれる4人の像が並んでいます。
寿永4年(1185年/元暦2年)3月の壇ノ浦の戦い後に長楽寺で出家した建礼門院徳子は、しばらくして吉田山の庵に移ります。 しかし、吉田山は都から近く、高倉天皇の中宮であり、安徳天皇の母であった彼女の哀れな姿を見ようと野次馬が覗き見しにくることもありました。 そこで、彼女は、同年9月に都から離れた山奥の大原に隠棲することにしました。
治承元年(1177年)に当寺権勢をふるっていた平家を倒そうという計画がありました。 世に言う鹿ケ谷の変です。 この計画は、事前に平清盛に察知され、関係者は捕えられ、処刑されたり、島流しにされたりしました。 鹿ケ谷の変に関わり島流しとなった者の中には、平康頼という人物もいました。
日本の曹洞宗の開祖で、福井県の永平寺を創建した道元が、生涯を終えた地が京都市下京区にあります。 道元は、正治2年(1200年)に京都で生まれ、建長5年(1253年)に54歳でこの世を去りました。
京阪電車の三条駅をよく利用する方はご存知と思いますが、この駅の近くには、土下座している像が置かれています。 土下座しているのは、高山彦九郎という江戸時代中期の人物です。 ところで、三条駅の高山彦九郎の像は、なぜ土下座をしているのでしょうか。