京都に関係する人物一覧

新撰組を脱走した山南敬助が眠る光縁寺

慶応元年(1865年)2月21日。 ひとりの新撰組隊士が脱走しました。 その隊士の名は、山南敬助(やまなみけいすけ)。 山南敬助は、局長の近藤勇(こんどういさみ)に次ぐ総長の役職にありました。 組織ナンバー2の山南敬助が脱走したのは、何が原因だったのでしょうか。

平安時代の美男子は塩焼きが好きだった?

京都市には海がないのに海水を焼いて塩を取る塩焼きが行われた場所が2つあります。 ひとつは西京区の十輪寺で、もうひとつは下京区の本覚寺です。 塩焼きが行われたのは、平安時代前期です。 十輪寺では在原業平(ありわらのなりひら)が、本覚寺では源融(みなもとのとおる)が塩焼きをしました。

建礼門院徳子が隠棲した寂光院

寿永4年(1185年/元暦2年)3月の壇ノ浦の戦い後に長楽寺で出家した建礼門院徳子は、しばらくして吉田山の庵に移ります。 しかし、吉田山は都から近く、高倉天皇の中宮であり、安徳天皇の母であった彼女の哀れな姿を見ようと野次馬が覗き見しにくることもありました。 そこで、彼女は、同年9月に都から離れた山奥の大原に隠棲することにしました。

卒塔婆流しで知られる平康頼の塔・大徳寺

治承元年(1177年)に当寺権勢をふるっていた平家を倒そうという計画がありました。 世に言う鹿ケ谷の変です。 この計画は、事前に平清盛に察知され、関係者は捕えられ、処刑されたり、島流しにされたりしました。 鹿ケ谷の変に関わり島流しとなった者の中には、平康頼という人物もいました。