京都に関係する人物一覧

野ざらしとなった会津藩士の遺体を埋葬した上坂仙吉

京都市左京区に金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)というお寺が建っています。 境内の東の小高い丘には、塔頭(たっちゅう)の西雲院(さいうんいん)が建ち、そこには、幕末に京都で亡くなった会津藩士たちの墓所があります。 墓所に埋葬された会津藩士は352名。そのうち237名が文久2年(1862年)から慶応3年(1867年)に亡くなった藩士たちで、残り115名は慶応4年正月に起こった鳥羽伏見の戦いで戦死した藩士たちです。 鳥羽伏見の戦いで会津藩は、旧幕府軍に属し、新政府軍と戦って負けています。 会津藩の戦死者は、戦場に野ざらしとされていましたが、会津藩の仲間(ちゅうげん)であった...

平安時代の美男子として有名な在原業平の邸宅跡

いつの時代でもかっこいい男性は、女性の憧れですよね。 さらに歌がうまいと、好感度がアップします。 しかも、家柄が良かったりすると、なんかもう別次元に住む遠い存在のように感じ、近くに寄るのもためらわれてしまいますね。 現代にもこういった有名人の方がいらっしゃいますが、歴史上にも、容姿端麗、歌がうまい、家柄が良いといった男性が何人もいました。 平安時代前期でいうと、在原業平(ありわらのなりひら)がそうですね。

明治天皇生誕の地・中山邸跡

京都御所の一般公開で、明治天皇紀附図のパネル写真が一部公開されていました。 その中で、京都御苑の北側にある中山邸跡が明治天皇生誕の地として紹介されていたので、御所の拝観を済ませた後に中山邸跡にも寄ってみることにしました。 中山邸跡は、以前にも見たことはあったのですが、通り過ぎる時についでに見る程度だったので、今回はじっくりと見学することに。

幕末より100年も前に尊王思想を唱えた藤井右門

京都市上京区の同志社大学の近くを歩いていると、人の背よりも高い石碑を発見しました。 その石碑の前の説明書には、藤井右門(ふじいうもん)宅跡と書かれていました。 藤井右門は、忠臣蔵でおなじみの赤穂藩の家臣であった藤井又左衛門の子で、赤穂藩取り潰しの後、又左衛門が移り住んだ越中国射水で享保5年(1720年)に生まれました。

安倍晴明の墓と蘇生伝説

平安時代中期の陰陽師(おんみょうじ)と言えば、安倍晴明。 夢枕獏の小説「陰陽師」の中で、安倍晴明は、都に跋扈(ばっこ)する魔物たちを呪法によって退治するモンスターハンターのように描かれています。 そんな安倍晴明も人間なので、やがて寿命が訪れます。 彼は、寛弘2年(1005年)9月26日に85歳でこの世を去ったと伝えられています。

新撰組を脱走した山南敬助が眠る光縁寺

慶応元年(1865年)2月21日。 ひとりの新撰組隊士が脱走しました。 その隊士の名は、山南敬助(やまなみけいすけ)。 山南敬助は、局長の近藤勇(こんどういさみ)に次ぐ総長の役職にありました。 組織ナンバー2の山南敬助が脱走したのは、何が原因だったのでしょうか。