
平家の運命を変えた平清盛の二人の母
平安時代末期、武士が政治の世界で活躍するきっかけを作ったのは、平清盛でした。 清盛を生んだ母の名は、祇園女御(ぎおんのにょうご)。 また、清盛には、父の忠盛の再婚相手である池禅尼(いけのぜんに)という母親もいました。 この二人の母親が、後に平家の運命を大きく変えることになります。
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平安時代末期、武士が政治の世界で活躍するきっかけを作ったのは、平清盛でした。 清盛を生んだ母の名は、祇園女御(ぎおんのにょうご)。 また、清盛には、父の忠盛の再婚相手である池禅尼(いけのぜんに)という母親もいました。 この二人の母親が、後に平家の運命を大きく変えることになります。
源平の争乱の始まりとなったことで有名なのが、保元元年(1156年)に起こった保元の乱です。 保元の乱の時は、まだ源氏と平家が戦うというよりも朝廷を中心とした争いに源氏と平家が参加したという形でした。 乱の原因は、後白河天皇と崇徳上皇との間の権力争いだったのですが、その争いに源氏も平家も身内同士で戦うことになります。 特に源氏は、父の源為義と長男の義朝が敵味方となって戦い、義朝の弟たちは父・為義につきました。 そして、その弟達の中には、弓の名手として知られる源為朝も混ざっていたのです。
平安時代後期、若干2歳にして即位した天皇がいました。 それは、近衛天皇です。 近衛天皇の父は鳥羽天皇で、兄に崇徳天皇がいます。 近衛天皇は、即位した年齢が幼かっただけでなく、17歳という若さでこの世を去っています。
普段の生活の中で、よく親しまれている飲み物としてすぐに思いつくのがお茶ではないでしょうか。 おそらく、今までに一度もお茶を飲んだことがないという方は、ほとんどいらっしゃらないと思います。 それどころか、一日一度は必ずお茶を飲むという方も多いことでしょう。 そんな親しみ深いお茶ですが、日本最古の茶園が、京都市右京区の北の方の栂尾(とがのお)に建つ高山寺の境内にあります。
鎌倉時代末期から室町時代初期にかけて活躍した武将の中に佐々木道誉(ささきどうよ)という人物がいます。 佐々木道誉は、身なりを派手に飾り、遠慮なく振る舞う性格で、当時の人々は彼を婆沙羅大名(ばさらだいみょう)と呼びました。
京都市伏見区の下鳥羽に恋塚寺というお寺があります。 恋塚寺は、国道1号線と桂川の間に建つ小さなお寺のため、うっかり民家と間違えて通り過ぎそうになってしまいます。 この小さなお寺は、平安時代末期に袈裟御前の菩提を弔うために建てられました。
前回の記事では、京都の熊野三山を紹介しました。 その熊野三山のひとつである新熊野神社(いまくまのじんじゃ)は、能楽の大成者である世阿弥と縁があることで知られています。 そこで、今回は世阿弥と新熊野神社を簡単に紹介したいと思います。
京都府八幡市の京阪電車八幡市駅から歩いて10分程度のところに飛行神社という神社が建っています。 その名のとおり航空安全のご利益があります。
幕末の京都の治安を守った新撰組を代表する事件と言えば、元治元年(1864年)に起こった池田屋事件ですね。 この時、長州藩の浪士たちを斬って、京都放火計画を未然に防いだわけですが、その後に長州藩が報復とばかりに藩兵を率いて上洛し、京都で市街戦が繰り広げられました。これが蛤御門の変です。 この2つの事件の後、新撰組は新たに隊士を増やすために江戸から有望な人材をスカウトしてきました。 その中の一人が伊東甲子太郎(いとうかしたろう)です。
「ゆく川の流れは絶えずしてしかも元の水にあらず」で始まる方丈記の作者と言えば、鴨長明ですよね。 その鴨長明が使っていた移動式住宅の方丈が下鴨神社の摂社である河合神社に置かれています。