京都市上京区に北野天満宮が建っています。
祭神として祀られているのは、学問の神さまで有名な菅原道真ですね。
菅原道真が北野天満宮が建つ地に祀られるようになったのは、彼の乳母とされる多治比文子(たじひのあやこ)に道真の託宣が下り、北野の右近の馬場に祀るようにと告げられたからだと伝えられています。
ところで、道真は、なぜ右近の馬場に祀るように告げたのでしょうか。
北野廃寺跡の石碑
北野天満宮は、京福電車の北野白梅町駅から今出川通を東に5分ほど歩いた辺りに建っていますが、北野白梅町駅を出てすぐの北野白梅町交差点の北東角には、北野廃寺跡の石碑が立っています。
フィールド・ミュージアム京都の以下のページに北野廃寺跡の簡単な説明が掲載されています。
上記ページによれば、北野廃寺は、飛鳥時代から平安時代中期の京都盆地最古の寺院跡だそうです。
寺域は、北野白梅町交差点を中心に1辺100メートルの範囲と推定されています。
この寺は、秦氏が建立したものと考えられており、太秦(うずまさ)の広隆寺の前身とされる蜂岡寺ではないかとする説があります。
北野は、平安遷都(794年)以前から天神や雷神を祀る地とされていました。
中公新書の「物語 京都の歴史」では、承和3年(836年)に遣唐使発遣にあたって天の神と地の神である天神地祇(てんじんちぎ)を祀ったのも、元慶年間(877-885年)に藤原基経が豊年を祈って雷公(雷神)を祀ったのも、ここ北野であったことが述べられています。
また、藤原基経が雷神を祀って効験があったことから、以後、北野では毎年秋に雷神を祀るようになったことが、岩波新書の「京都の歴史を歩く」に述べられています。
雷を落とした菅原道真を北野に祀る
菅原道真は、藤原時平の讒言により大宰府に左遷させられました。
道真は、京都に戻ることができず、彼の地で亡くなります。
道真の死後、数年経ち、藤原時平が亡くなります。
さらに時平の娘の夫である保明親王(やすあきらしんのう)も21歳の若さで亡くなり、これは道真の怨霊の仕業ではないかとささやかれるようになりました。
朝廷は、延喜23年(923年)に道真を左遷した詔勅を破棄し、長雨と疫病のために年号を延長に改元しましたが、延長3年(925年)には、天然痘が流行し、皇太孫で時平の孫の慶頼王(よしよりおう)も5歳で亡くなりました。
さらに道真の怨霊は、延長8年に内裏の清涼殿に雷を落とします。
これにより、多くの公卿が亡くなり、醍醐天皇も咳病(せきのやまい)で3ヶ月後に崩御しました。
多治比文子に道真の託宣が下ったのは、天慶5年(942年)でした。
道真が、「我を右近の馬場に祀れ」と告げたあれですね。
託宣が下ったのは、天暦元年(947年)とも伝えられています。
右近の馬場は、現在の北野天満宮の東側あたりで、一ノ鳥居の北です。
文子は、貧しかったため、すぐに右近の馬場に道真を祀ることができず、右京七条二坊一三町の自宅に小さな祠を建てて道真を祀りました。
この文子の自宅があったとされる地に今も建っているのが文子天満宮で、天神信仰発祥の神社とされています。
文子が、道真を右近の馬場に祀ったのは、それから5年後のことです。
さらに数年後には、近江比良宮の禰宜(ねぎ)であった神良種(みわよしたね)の子の太郎丸にも道真の託宣が下り、良種は朝日寺の最鎮とともに北野寺を創建し、後に藤原時平の甥の師輔(もろすけ)が増築して神宝を献じたと伝えられています。
朝廷が道真を祀ったのは、彼の怨霊が災いをもたらし始めてから随分と経過した永延元年(987年)でした。
それが現在の北野天満宮です。
菅原道真が北野に祀られたのは、多治比文子に託宣が下ったことが理由とされていますが、なぜ北野だったのかを考えると、平安時代以前からこの地に天神や雷神を祀る信仰があったからと言えそうです。
清涼殿に雷を落とした道真の怨霊と天神や雷神が結び付き、北野天満宮の創建へといたったのでしょうね。