京都には、49ヶ所74人の天皇陵があります。
千年以上都がおかれた都市なので、やはり多いですね。
今までこのブログでは、あまり天皇陵を紹介してきませんでした。
どの天皇陵も見た目がほとんど同じというのが、その理由だったのですが、しかし、京都で天皇陵を無視するというのもどうかと思い、今回の記事から少しずつ紹介していくことにしました。
第1回目の今回は、左京区の吉田山付近にある後二条、後一条、陽成の3人の天皇陵を紹介します。
後二条天皇北白河陵
吉田山の北西、知恩寺から300メートルほど東に行ったあたりに後二条天皇北白河陵(ごにじょうてんのうきたしらかわのみささぎ)があります。
後二条天皇の在位は、正安3年(1301年)から徳治3年(1308年)まで。
後二条天皇が即位した鎌倉時代の後期は、皇室内で皇位継承についてもめていた時代です。
この頃、皇室は大覚寺統と持明院(じみょういん)統の2派に分かれており、交互に即位するように約束が交わされていました。
しかし、この約束は必ずしも守られていたわけではなく、大覚寺統の後二条天皇は、伏見天皇、後伏見天皇と持明院統が2代続いた後に即位しました。
このあたりのことについては、以前に「南北朝の争乱の原因は後嵯峨天皇だったのでは?」の記事で紹介していますので、ご覧になってください。
後一条天皇菩提樹院陵
後一条天皇菩提樹院陵(ごいちじょうてんのうぼだいじゅいんのみささぎ)は、吉田山の南、宗忠神社と真如堂の間にあります。
後一条天皇の在位は、長和5年(1016年)から長元9年(1036年)まで。
即位した年齢はわずか8歳だったため、外祖父にあたる藤原道長が摂政となり、権勢をふるいました。
後一条天皇は即位したのも早かったのですが、亡くなったのも早く29歳で崩御しました。
なお、後一条天皇については、「平安夢柔話」さんの第68代 後一条天皇の記事で詳しく解説されていますので、ご覧になってください。
陽成天皇神楽岡東陵
後一条天皇菩提樹院陵から少し東にあるのが、陽成天皇神楽岡東陵(ようぜいてんのうかぐらがおかのひがしのみささぎ)です。
陽成天皇の在位は、貞観18年(876年)から元慶8年(884年)まで。
陽成天皇も後一条天皇と同じく幼くして即位しました。その時の年齢は9歳。
退位したのが17歳の時で、宮中で殺人事件を起こしたことがその原因と伝えられています。
その後は、80歳過ぎまで長生きし、天暦3年(949年)に亡くなっています。
以上が、吉田山周辺にある3つの天皇陵です。
この記事に掲載している天皇陵の写真は、同じものを別の角度から撮影したものと思うかもしれませんが、全て違うものです。
多くの天皇陵が同じ形をしているので、なかなか写真だけでは違いが伝わりにくいですね。