9月上旬に京都市下京区の島原に建つ輪違屋(わちがいや)の特別公開を見た後、近くの角屋(すみや)を訪れました。
江戸時代の花街であった島原では、輪違屋が芸妓や太夫を抱える置屋と呼ばれていました。
一方、角屋は、現在の料亭のような饗宴のための施設である揚屋(あげや)を生業としていました。
その角屋では、7月19日から9月14日まで、京の夏の旅の特別公開が行われています。
松の間と網代の間
角屋は、JR丹波口駅から南東に徒歩約6分の場所に建っています。
2階建ての建物はとても大きく、学校の体育館くらいの面積はあるでしょうか。
入り口で拝観料600円を支払い、まっすぐ進んで台所から建物の中に入ります。
今回の特別公開は1階部分だけで、建物の一番奥の松の間で、角屋の解説が行われます。
角屋は、寛永18年(1641年)に島原ができた当初から営業を始めました。
揚屋である角屋は、置屋から芸妓や太夫を派遣してもらい、歌舞音曲の遊宴を楽しむ施設で、現在の料亭のようなものでした。
そして、松の間は、角屋で最も広い大座敷です。
角屋は昭和27年(1952年)に国の重要文化財に指定されましたが、松の間は、大正14年(1925年)に一部が焼失し翌年に再建したことから重要文化財にはなっていません。
角屋には、江戸時代に多くの著名人が訪れており、幕末には新撰組が宴会を開いています。
文久3年(1863年)9月には、当時の筆頭局長であった芹沢鴨(せりざわかも)が大勢の隊士とともに角屋の松の間で宴会を行いました。
この宴会で泥酔した芹沢鴨は、新撰組屯所の八木邸に帰って熟睡しているところを同じ新撰組の近藤勇たちに襲撃され命を落としています。
松の間の南側には、広い主庭があり、中央には枝を横に呼ばした臥龍松(がりょうのまつ)が植えられています。
この臥龍松は、天明年間(1781-1789年)に角屋の庭園七景色のひとつに選ばれました。
しかし、大正時代末に枯れてしまったため、現在は2世の松となっています。
網代(あじろ)の間にやって来ました。
天井板を網代組にしていることから、その名がついています。
棹縁には長さが4間(約8メートル)ある北山杉の丸太が使われています。
上の写真に写っている襖絵は、長谷川等雲筆の「唐子の図」です。
こちらは玄関です。
この玄関は、来客用のものです。
敷石がやや斜めになっているのが特徴的ですね。
玄関を上がってすぐの場所には、刀掛があります。
この刀掛は、侍の太刀をいったん預かるために使われます。
台所
台所にやって来ました。
角屋の台所は、なんと50畳もあります。
台所には、いろんなところに神棚が設置されています。
台所は、3本の柱だけで支えられていましたが、構造に無理があると言うことで、昭和54年に中央に2本の補強柱が入れられました。
台所に盥(たらい)が置かれていました。
この盥は、かつて西郷隆盛が角屋を訪れた時に使用したものだとか。
昭和20年には、戦況悪化のために角屋は取り壊しの対象となりましたが、明治維新の元勲らも使った遺構であったため取り壊しは延期となり、そのまま終戦を迎えました。
「角屋の危機を救ったのはまさしく西郷南洲翁の、この盥といっても過言ではない」と説明書に書かれていましたよ。
台所の隅に置かれたタンスは刀箪笥です。
玄関で、客からいったん預かっていた刀は、この刀箪笥に移され保管されました。
台所には、いくつも竈(かまど)があります。
この竈の多さを見ていると、角屋が江戸時代の大宴会場だったことがよくわかりますね。
角屋の拝観を終えたので、外に出ることに。
出口付近には、角屋で使われていたのれんがかかっていましたよ。
角屋は、京の夏の旅の特別公開だけでなく、春と秋にも公開されます。
春は3月15日から7月18日まで、秋は9月15日から12月15日までが公開期間です。
拝観料は1,000円なので、京の夏の旅よりか割高ですね。
なお、角屋の詳細については以下のページを参考にしてみてください。