鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府。
いずれも武家の棟梁が築いた政治体制で、征夷大将軍になったのは全て源氏です。
源氏といえば、坂東武者というイメージが強いので、鎌倉幕府や江戸幕府のように政治の中心を関東に置いたことは当然のことだと思います。
しかし、室町幕府は関東ではなく、京都を政治の中心としました。
足利尊氏が京都に幕府をつくったことで、北山文化や東山文化が開花し、そのおかげで今日、金閣寺や銀閣寺に観光に行けるのですから、感謝しなければなりませんね。
ところで、室町幕府の史跡を観たことがあるでしょうか。
江戸城のように大きなものが存在していても良さそうなのですが、実際には探すのが難しいほど小さなものしか残っていません。
花の御所跡
室町幕府の名は、3代将軍の足利義満の邸宅が、上京区の室町通に面していたことが由来です。
室町幕府は、もともと中京区にありましたが、後に義満が菊亭家の邸宅跡を譲り受け、約4年の歳月をかけて永徳元年(1381年)に上京区に幕府邸を完成させました。
その邸宅は、多くの花の名木が植えられていたことから、花の御所と呼ばれることになります。
金閣寺を建てた義満の邸宅にはぴったりの呼び名ですね、
しかし、花の御所は、応仁の乱によって文明8年(1476年)に焼失します。
その後、再建されましたが、義満の時代のようには栄えなかったようです。
花の御所は、現在の同志社大学今出川キャンパスと新町キャンパスの間あたりにあったとされていますが、その付近は民家やお店ばかりです。
この景色から義満の栄華を想像するのは、ちょっと難しいですね。
なんとか花の御所跡の石碑を探し出すことができましたが、これを見ても全く花の御所がどのようなものだったのかをイメージできません。
なお、花の御所跡の石碑は、同志社大学今出川キャンパスの西側に建つ大聖寺内に置かれています。
鎮守社の御所八幡宮
花の御所跡の石碑が味気ないのと同じように、室町幕府の鎮守社であった御所八幡宮もその小ささに驚きます。
御所八幡宮は、中京区の御池通沿いのホテルギンモンド京都の隣に建っています。
創建したのは、足利尊氏で、自宅内に鎮守社として建てたのが始まりとされています。
室町幕府の鎮守社と聞けば、大きな神社を想像しますが、現在の御所八幡宮は下の写真に写っているようにコンビニほどの広さしかありません。
御所八幡宮が、当地に移ってきたのは太平洋戦争の強制疎開の時です。
なぜ室町幕府の史跡がこれほどまでに質素なのか
花の御所跡も御所八幡宮も、室町幕府の史跡としては、あまりにも質素過ぎないでしょうか。
この点に関しては、「京都の歴史がわかる事典」という書籍で以下のように述べられています。
戦前の教育では皇国史観に基づいて後醍醐天皇の事跡は大切にされたが、それに反目した歴代足利将軍やその遺跡はないがしろにされてきた感がある。
確かに戦時中まで、歴史の中で足利尊氏は逆賊として扱われてきた部分があります。
幕末には、天皇を敬う勤王の志士たちは、後醍醐天皇に忠誠を誓った楠木正成を尊敬し、北朝を建てて後醍醐天皇と対峙した足利尊氏を朝敵として扱っていました。
このように足利尊氏を一方的に批難してきた歴史が、室町幕府の史跡を質素なものへと変えていったのかもしれませんね。
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