どちらも名前が似ているため、建立した人物や年代など勘違いしてしまうことがよくあります。
そこで、今回の記事では、金閣寺と銀閣寺の特徴をまとめてみました。
似ているところ
まず最初は、金閣寺と銀閣寺で似ているところをみていきましょう。
簡単に列挙すると以下の点が似ています。
- 室町幕府の将軍が建立
- 最初はお寺ではなかった
- 複数の階層を持っている
- 通称で親しまれている
室町幕府の将軍が建立
金閣寺も銀閣寺も室町幕府の将軍によって建立されました。
金閣寺を建立したのは3代将軍の足利義満で、銀閣寺を建立したのは8代将軍の足利義政です。
建立時期は、金閣寺が応永4年(1397年)、銀閣寺が文明14年(1482年)です。
最初はお寺ではなかった
金閣寺も銀閣寺も最初はお寺ではなく将軍の邸宅でした。
当初、金閣寺は北山殿と呼ばれ、銀閣寺は東山殿と呼ばれていました。
お寺となったのは、どちらも将軍が亡くなってからです。
複数の階層を持っている
金閣は3層、銀閣は2層とどちらも複数の階層を持っています。
前者は、1層目が寝殿造の法水院、2層目が武家造の潮音堂、3層目が禅宗仏殿造の究竟頂(くっきょうちょう)からなっています。
後者は、1層目が書院風の心空殿、2層目が唐様仏殿様式の潮音閣からなっています。
どちらも屋根の上には、鳳凰がいます。
通称で親しまれている
金閣寺も銀閣寺も正式な名称ではなく通称です。
金閣寺は、正式には鹿苑寺(ろくおんじ)と言いますが、金色に装飾された舎利殿から金閣寺の通称で親しまれています。
一方の銀閣寺は、正式には慈照寺と言い、観音殿が銀閣と呼ばれていることから銀閣寺の通称で親しまれています。
目的が全く異なる
上述のように金閣寺と銀閣寺には、様々な共通点がありますが、両者が建てられた背景は全く異なっています。
金閣寺は、足利義満が将軍職を譲った後、自らの隠居所として建てられたものです。
義満が将軍職を譲ったのは、将軍の背後で政治を動かすことが目的で、天皇が譲位して上皇となり院政を行うのを真似たものだとされます。
金閣の1層目が公家や皇族の邸宅に採用される寝殿造、2層目が武家造とされたのは、武士が朝廷よりも上だということを示すためです。
また、3層目が究極の頂を意味した究竟頂と名付けられたのは、自らの権力を誇示したものだとされています。
このように義満が、後に金閣寺となる北山殿を造営したのは、隠居後も積極的に政治に関与するためだったのです。
一方の銀閣寺も義政が将軍職を譲った後、自らの隠居所として造営した点では、金閣寺と共通しています。
しかし、義政の場合は、政治に関わることが苦手で、そこから逃避し、趣味に没頭するために若干8歳の義尚に将軍職を譲ったという点で、義満とは考え方が全く異なっていました。
銀閣寺にはなぜ銀箔が貼られていないのか?
よく銀閣寺は、以前は銀箔が貼られていたとか、銀箔を貼る予定だったけど応仁の乱(1467年)によって財産が無くなり貼れなくなったとか言われることがあります。
しかし、実際には銀箔は貼られていませんでしたし、貼る予定も無かったようです。
銀箔が貼られていたとか言われるようになったのは、江戸時代に書かれた京都のガイドブックに銀閣寺は金閣寺を模範として建てられたと紹介されたことが理由とされています。
ところが、足利義政が模範としたのは金閣寺ではなく、実際は京都市西京区に建つ西芳寺(苔寺)です。
西芳寺には、西来庵という建物があるのですが、これを真似て建てられたのが、銀閣寺の東求堂(とうぐどう)です。
そのため、銀閣寺の中心は銀閣ではなく東求堂とも言われています。
また、観音殿を銀閣と呼ぶようになったのも江戸時代のことだそうです。
そもそも、観音殿は、歴代の室町幕府の将軍の邸宅に建てられていた建物で、銀閣の他にも観音殿は存在していました。
もちろん、金閣寺を建てた足利義満の邸宅にも観音殿はありました。
なので、銀閣と対比される建物は、本来金閣ではなく、歴代将軍が建てた観音殿と言えるでしょう。
このように金閣寺と銀閣寺は、名称はよく似ていますが、前者は政治的な意味が強く、後者は文化的な意味が強いといった点で異なっていますね。
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