京都市上京区に上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)という神社が建っています。
また、上御霊神社から南東に15分ほど歩くと、下御霊神社という神社も建っています。
両社は、ともに「御霊」という文字が社名に入っているので、創建された目的は同じです。
その目的とは、怨霊の祟りを鎮めるためです。
平安時代、非業の死を遂げた人々が怨霊となって、疫病や洪水などの災いをもたらすと考えられていました。
そして、こういった災いから、京都を守るためには、怨霊を神社に祀って御霊に変えれば良いとされていました。
この信仰を御霊信仰といいます。
上御霊神社も下御霊神社も、祭神として祀られているのは、非業の死を遂げた人ばかりです。
その名を見ていると、桓武天皇と関係の深い人が多いんですよね。
上御霊神社と下御霊神社の祭神
まずは、上御霊神社に祀られている祭神を確認しましょう。
同社に祀られている祭神は八所御霊(はっしょごりょう)と呼ばれています。
- 早良親王(さわらしんのう)
- 井上内親王(いのえないしんのう)
- 他戸親王(おさべしんのう)
- 藤原吉子
- 文屋宮田麻呂(ふんやのみやたまろ)
- 橘逸勢(たちばなのはやなり)
- 吉備真備(きびのまきび)
- 火雷神(菅原道真)
また、下御霊神社に祀られているのも8座ですが、上御霊神社と少しばかり違っています。
下御霊神社の本殿八座は以下の通りです。
- 吉備真備
- 早良親王
- 伊予親王
- 藤原吉子
- 藤原広嗣
- 橘逸勢
- 文屋宮田麻呂
- 火雷天神
両社の祭神の中で、早良親王、井上内親王、他戸親王、伊予親王、藤原吉子の5柱が、桓武天皇と深い関係にあります。
御霊第1号は早良親王
桓武天皇と深い関係にあった人がたくさん祭神として祀られているのは、それだけ、桓武天皇を取り巻く環境が政治的に複雑であったということの現れです。
怨霊となって京都に災いをもたらした第1号は、桓武天皇の弟の早良親王でした。
都が平安京に遷される前、長岡京が造営されていましたが、この時、造営の長官であった藤原種継が何者かによって暗殺されます。
その時に疑いをかけられたのが、早良親王だったんですね。
彼は、幽閉されているとき、自らの無実を訴えるために食を断ちましたが、その思いは桓武天皇に通じず餓死してしまいました。
その後、桓武天皇の親族が次々と謎の死を遂げ、皇太子の安殿親王(あてしんのう)も重病で苦しむことになりました。
そこで、天皇は原因を探るため、祈祷師に占わせたところ、早良親王の祟りによるものだと告げられます。
自分の身辺に起こる不幸が早良親王の祟りだとわかった桓武天皇は、さっそく墓参りのための使者をつかわし、さらに親王に祟道天皇(すどうてんのう)の諡号(しごう)を贈りました。
この早良親王が、御霊第1号とされています。
井上内親王と伊予親王
桓武天皇には、他にも気になることがありました。
それは、井上内親王と他戸親王のことです。
井上内親王は、桓武天皇の父の光仁天皇の皇后です。そして、他戸親王は、両者の間に生まれた皇太子でした。
皇太子は、後に天皇になることを約束された地位にある人のことですが、他戸親王は天皇になれずにこの世を去っています。
他戸新王は、井上内親王とともに光仁天皇を呪詛して殺そうとした疑いがかけられ、大和に幽閉され、謎の死を遂げたからです。
その後に皇太子になったのが、後に桓武天皇となる山部親王でした。
上御霊神社には、冤罪で非業の死を遂げた人々を祀っているので、おそらく、井上内親王と伊予親王も、桓武天皇との政争に敗れ、無念のうちにこの世を去ったのでしょう。
だから、怨霊となって祟りを起こし、それを鎮めるために上御霊神社に祀られたのではないかと考えられています。
伊予親王と藤原吉子
次に伊予親王と藤原吉子をみてみましょう。
伊予親王は、桓武天皇の皇子で、藤原吉子は親王の母でした。つまり、藤原吉子は桓武天皇の妃ということです。
伊予親王は、兄の安殿親王が平城天皇(へいぜいてんのう)に即位したと同時に皇太子になりました。
ところが、藤原仲成の謀略により謀反の疑いをかけられ、母の藤原吉子とともに伏見の川原寺に幽閉されます。
そして、親王は断食後に吉子とともに毒を飲んで自害しました。
なお、早良親王に次いで2番目に御霊となったのが伊予親王で、3番目が藤原吉子です。
桓武天皇が都を京都に遷して、その後、1200年以上も発展を遂げているのですから、桓武天皇に親近感を持っている京都人は多いはず。
でも、桓武天皇の周りで非業の死を遂げた人々がたくさんいたということは、かなり悪どいことをやってきたのかもしれません。
他にも、闇に葬られた事件がありそうですね。
なお、上御霊神社と下御霊神社の詳細については以下のページを参考にしてみてください。