小野のお通邸で再会した真田信幸と幸村・八坂の塔

関ヶ原の戦いの時、東軍と西軍に分かれて戦った家がありました。

それは真田家です。

父の昌幸と次男の幸村は西軍に味方し、長男の信幸は東軍に味方します。

戦いは、徳川家康率いる東軍の勝利で幕を閉じ、真田昌幸と幸村は死を覚悟しました。

本多忠勝の助命嘆願で九度山へ

勝者についた真田信幸は、当然のことながら、父と弟の助命を徳川家康に願い出ます。

しかし、徳川家康は、過去に真田昌幸と戦って負けており、生かしておくことに危険を感じていました。

また、今回の戦いでも、真田昌幸は上田城にたてこもって徳川秀忠を釘付けにし、関ヶ原到着を遅らせており、徳川家には邪魔な存在でしかありません。

当然、真田親子は処刑になるだろうと誰もが思っていましたが、家康の家臣の本多忠勝が助命を嘆願したため、2人は命を助けられ九度山追放で済みました。

本多忠勝が、真田親子の助命を願い出たのは、娘が真田信幸に嫁いでいたからです。

彼は、信幸の徳川に対する忠誠が本物であることを説き、昌幸と幸村の減刑を強く主張したため、家康も本多忠勝の嘆願を聞き入れることにしました。

幸村が大坂冬の陣で大活躍

関ヶ原の戦いから14年後。

徳川と豊臣の間で、大坂冬の陣が起こりました。

この時、すでに真田昌幸はこの世を去っていましたが、幸村は、ひそかに九度山を脱走して大坂に入城し、徳川の敵にまわりました。

幸村は、大坂城に真田丸という砦を築き、攻めてきた徳川方の大軍を見事に蹴散らし、東西両軍にその名を轟かせました。

しかし、幸村の活躍にもかかわらず、大坂冬の陣は家康からの申し出で和睦が成立します。

この和睦で、大坂城は外濠と内濠を埋められて防御力を失い、また、真田丸も取り壊されました。

小野のお通邸で兄弟再会

東西で和睦が成立したとはいえ、再び戦いが起こることは誰もが予見できる状況でした。

もちろん、徳川家康は、豊臣家を滅ぼすつもりでいたので、次なる戦いのために軍備を整えます。

外濠も内濠も埋められた大坂城を落とすのは、家康にとって容易いことでしたが、しかし、彼には気になることがありました。

それは、真田幸村が依然として大坂にいることです。

家康は、真田幸村の武力を恐れ、伯父の真田信尹(のぶただ)を通じて、再三、書状で幸村に徳川へ味方するように説得しました。

しかし、幸村は家康に味方することを拒否します。

そこで、家康は、兄の信幸を幸村に直に会わせて説得させることにしました。

兄弟の再開の日は、元和元年(1615年)2月末。

場所は、京都の東山にある小野のお通の屋敷でした。

小野のお通は、当時、才色を世にうたわれた女流文化人で、家康の庇護を受けていました。かつては、宮中に仕え、豊臣秀吉とも交流がありました。

関ヶ原の戦いから約15年後。久しぶりの兄弟の対面です。

すでに信幸は50歳、幸村は48歳になっていました。

信幸は、これからは徳川の世になり、戦国武将は太平の世の政治家に転向していくことになると幸村に言い、徳川に味方するように説得します。

しかし、幸村は首を縦に振ろうとしません。

幸村の望みは、家康の首ただひとつ。太平の世で生き続けることよりも、戦国武将らしく戦場で生涯を全うすることを選んだのです。

この時、2人は、小野のお通邸から、お互い寂しい思いで八坂の塔を眺めたことでしょう。

八坂の塔

八坂の塔

真田家取り潰しの危機

その後、真田幸村は、大坂夏の陣で徳川家康をあと一歩のところまで追い込みましたが、武運なく戦死します。

豊臣家もこの戦いで滅亡し、天下は徳川に完全に移りました。

徳川の世となってから、多くの大名が、幕府から様々な口実をつけられて取り潰しの処分を受けます。

上田6万石の城主となっていた真田信幸も、徳川秀忠から目をつけられ、取り潰しの危機にありました。

幕府は、まず真田家に信州松代への国替えを命じます。

さらに真田家に入り込んでいた幕府の隠密が、大坂冬の陣の後、信幸と幸村がひそかにあっていたことを秀忠に報告しました。

それを口実に秀忠は、真田家を取り潰すことにします。

真田家の江戸家老の木村土佐守が幕府の尋問を受けることになりました。

幕府は、他にも様々な罪状を挙げて真田家を潰そうとしましたが、全て捏造されたものだったので、木村土佐守は、堂々と弁明します。

しかし、信幸と幸村が密会したことは事実だったので、これについては言い逃れができません。

これで真田家を取り潰せると秀忠は思ったことでしょう。

ところが、木村土佐守は、1通の手紙を幕府老中の前に差し出しました。

それは、徳川家康から小野のお通にあてたもので、そこには、信幸と幸村の会談に力を貸してやって欲しいという内容が書かれていました。

家康公認の密会であったことから、老中は、それ以上、木村土佐守を追求することはできません。

この家康が小野のお通にあてた手紙のおかげで、真田家は幕末まで存続することができました。

なお、八坂の塔の詳細については以下のページを参考にしてみてください。

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