平安京は、四神相応の地に造営された都です。
四神相応の地というのは、北に玄武、東に青竜、南に朱雀、西に白虎という四方を守る神がいる地形のことです。
これを平安京に当てはめると、北は船岡山、東は鴨川、南は巨椋池(おぐらいけ)、西は山陰道に囲まれており、まさに四神相応の地だったわけです。
そして、平安京の中心をなす大内裏(だいだいり)の位置は、風水の思想によって決定されたといわれています。
龍穴と龍脈
四方を四神に囲まれていれば、大内裏をどこに建設しても良さそうに思えます。
しかし、平安遷都(794年)が行われた当時は、風水が最先端科学と信じられていたので、大内裏を好きな場所に建てるよりも、風水の思想にしたがって建設した方が、より良い都を造れると考えられました。
ちなみに風水は、日本でいうところの陰陽道(おんみょうどう)のことです。
井沢元彦さんの著書「逆説の日本史3巻」によると、「万物の動源としてのエネルギー『気』を、自然界に存する『風』や『水』を使って囲い込みコントロールする」のが風水の思想ということです。
そして、気が集中している場所を龍穴(りゅうけつ)、気が流れる道のことを龍脈といいます。
平安京の中心をなす大内裏が、気が集中する龍穴に建てられたということは容易に想像できるでしょう。
龍穴を見つけるためには、龍脈を探して地気を読み取る必要があります。
船岡山を起点にして南北に中心線を引く
龍穴を見つけるためには、まず、起点から南北に中心線を描きます。
平安京の場合、起点となるのは、船岡山です。
船岡山から南に向かって線を引くと、京田辺市の甘南備山(かんなびやま)につながります。
これで、南北に中心線を引くことができ、縦軸が定まりました。
東山と西山を結ぶ横軸
縦軸が定まったところで、次に横軸を定めます。
平安京は、東に東山、西に西山がそびえています。
この2つの山脈にある点を結ぶと横軸となります。
東山の山頂には、将軍塚があり、これを東山の点とします。
将軍塚は、桓武天皇が、平安遷都の際に王城鎮護のため、高さ8尺(約2.5メートル)の像に甲冑を着せ弓矢を持たせて埋めた塚とされています。
平安京の東の起点と考えるのに十分な理由がありますね。
将軍塚から結ぶ西の点は神護寺です。
神護寺は、平安遷都に深くかかわった和気清麻呂と関係のあるお寺で、彼の墓は、神護寺内にあります。
神護寺を西の点と考えることにも十分な理由がありますね。
ここで注目すべきは、将軍塚が冬至の日の出の位置にあり、神護寺が夏至の日の入りの位置にあるということです。
大内裏から冬至の朝に東を望むとちょうど将軍塚から日が昇ってきます。
また、大内裏から夏至の日の夕方に西を望むと神護寺に日が沈んでいきます。
船岡山から甘南備山を結ぶ南北の中心線と将軍塚と神護寺を結ぶ東西の線が交わる場所が龍穴です。
ところで、夏至の日の日の入りと冬至の日の日の出は、どこなのでしょうか。
夏至の日の日の入りは松尾大社(まつのおたいしゃ)で、冬至の日の日の入りは下鴨神社となります。
両社ともに平安遷都より前にあった神社で、平安遷都後は王城鎮護の守護神とされました。
4つの点を結んだ中心に位置する大内裏
船岡山と甘南備山、将軍塚と神護寺、それぞれを線で結んだ真ん中、すなわち、龍穴に大内裏は建っていました。
まさに平安京の大内裏は、風水の思想に基づいて造営された建物だったんですね。
風水では、龍穴の前にある左右を山脈に囲まれた空間を明堂といいます。
平安京の市街は、明堂に造られていたので、これも風水の思想に基づいたものだということがわかります。
ところで、桓武天皇はどうして平安京の造営に風水の思想を採り入れたのでしょうか。
井沢さんによると、それは、早良親王(さわらしんのう)の祟りから逃れるためということです。
平安京の前の都は長岡京でした。
長岡京の造営の長官は藤原種継でしたが、ある日、何者かによって暗殺されました。
その下手人として疑われたのが早良親王でした。
早良親王は、食を断って無実を訴えましたが、聞き入れられず、非業の死を遂げました。
その後、桓武天皇の身の回りで不幸が相次ぎます。
これは、早良親王の祟りに違いないと思った桓武天皇は、長岡京を捨てることにしました。
長岡京の次に都を置く場所はどこにしたら良いのか、陰陽師に占わせたところ、平安京が四神相応の地なので、ここを都と定めれば、早良親王の怨霊から身を守ることができるという答えが出ました。
だから、桓武天皇は風水の思想を採り入れた平安京を造営したのです。
現在なら、祟りなんて迷信だと笑って済まされますが、当時は、疫病の流行や洪水が起こる科学的な理由がわからなかったので、風水に頼るしかなかったんですね。
それにしても1200年も前から、正確に位置を測る技術があったというのは驚きです。
現代人が考えているよりも、平安時代の人たちはずっと頭が良かったのでしょうね。