京都市南区に建つ五重塔で有名な東寺。
東寺には、他にも教王護国寺という名称があります。
金閣寺の正式名称が鹿苑寺(ろくおんじ)、銀閣寺の正式名称が慈照寺、苔寺の正式名称が西芳寺というように京都のお寺では、2つの名で呼ばれているところがいくつもあります。
東寺もそのひとつですね。
では、東寺と教王護国寺はどちらが正式名称なのでしょうか。
創建当初は東寺と呼ばれていた
東寺が創建されたのは、延暦15年(796年)のことです。
平安京造営とともに羅城門の東西に王城鎮護を目的として2つの官寺が建てられました。
羅城門の東に建立されたのが東寺で、その名も羅城門の東側に建てられたことから名付けられました。
つまり、創建されたときは、東寺が正式名称だったわけです。
ちなみに羅城門の西に建てられたのは西寺ですが、現在はありません。
では、教王護国寺という名は、いつ付けられたものなのでしょうか?
これは、東寺創建から約30年経った弘仁14年(823年)に嵯峨天皇が、弘法大師空海に東寺を下賜された時です。
空海は、東寺を真言密教の根本道場とするために東寺から教王護国寺に改称しました。
なお、教王護国寺というのも厳密にいうと、正式名称とは言えません。
本来は、金光明四天王教王護国寺秘密伝法院(こんこうみょうしてんのうきょうおうごこくじひみつでんぽういん)といい、教王護国寺はその略称です。
後醍醐天皇が強調した鎮護国家
東寺というのは創建当初の名であり、改称して教王護国寺となったことから、正式名称は後者ということになります。
創建された時は、鎮護国家を目的とし東寺と呼ばれていたのが、空海に下賜されてからは真言密教の根本道場として教王護国寺と呼ばれるようになったわけですが、漢字だけを見ると、鎮護国家を目的として教王護国寺と名付けたように思えませんか。
このように解釈したのが、後醍醐天皇でした。
後醍醐天皇は、鎌倉幕府を滅ぼし、天皇中心の政治体制を築こうとしましたが、やがて、足利尊氏と対立し、京都から吉野へと逃げます。
この時から、吉野に後醍醐天皇の南朝と京都に足利尊氏が光明天皇を擁立した北朝が同時にでき、数十年に渡る南北朝時代に突入します。
もともと後醍醐天皇は、武士が幕府をつくって政治を行うことが不満で、平安時代のように天皇を中心とした政治を理想としていました。
そのような後醍醐天皇の考え方と教王護国寺という漢字がしっくりと来ること、また、東寺が当初は王城鎮護を目的として創建されたことから、後醍醐天皇は、東寺に対して教王護国寺の名を使い続けるように要請します。
しかし、空海が名付けた教王護国寺は、意味が違います。
これについては、三浦俊良氏の著書「東寺の謎」に以下のように記述されています。
だが真言密教がいう教王とは、密教の根本経典である『教王経』すなわち『金剛頂経』をさすことばである。したがって教王護国寺という意味のなかには、真言密教の根本道場であり、鎮護国家の修法をおこなう場というふたつの意味がふくまれている。
後醍醐天皇の時代以後、教王護国寺という名を鎮護国家の意味で使い続けたことから、その名が持つ意味は現在では2つということですね。
東寺の正式名称は、教王護国寺ですが、普段は圧倒的に東寺という名の方が使われています。
どちらかというと、東寺の方が親しみがわきますね。
境内でも、教王護国寺よりも東寺の名の方が目につきます。
拝観案内も、「教王護国寺」という文字は小さく書いてあり、「東寺」の文字はその10倍くらいの大きさで書かれています。
南大門の両脇にかかる白い提灯にも大きな文字で「東寺」と書かれています。
京都に住む人や参拝者にとっては、教王護国寺よりも東寺の方が親しみがあるのは、お寺側でも東寺という名を多く使用しているからなのかもしれませんね。
なお、東寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。