明治になって再建された豊国神社

京都市東山区に建つ豊国神社(とよくにじんじゃ)は、豊臣秀吉を祀っています。

慶長3年(1598年)に秀吉が亡くなると、遺体は、彼の遺命により阿弥陀ヶ峰の中腹に埋葬されました。

そのふもとの豊国廟太閤坦(ほうこくびょうたいこうだいら)には、80余りの廟社が造営され、後陽成天皇から正一位の神階と豊国大明神(とよくにだいみょうじん)の神号を賜っています。

これが豊国神社の創建ですが、その後、荒廃し、明治になって再建されています。

大坂夏の陣で荒廃

豊国神社には、京阪電車の七条駅から北東に約6分歩くと到着します。

市バス停「博物館三十三間堂前」からだと南に徒歩約3分です。

慶長9年8月に秀吉の七回忌に盛大な臨時祭礼が行われ、その様子は豊国臨時祭礼図屏風にも描かれるほどでした。

しかし、慶長20年の大坂夏の陣で豊臣家が滅びると、徳川幕府により廃祀され、豊国大明神の神号も剥奪されました。

以後、豊国神社は荒廃しました。

明治政府により再建

江戸時代の初めに廃祀となった豊国神社は、それから約260年が過ぎた明治13年(1880年)に社殿が再建されています。

再建されたのは、豊国廟太閤坦から西の旧方広寺大仏殿跡です。

境内に建つ唐門は、伏見城の遺構で、二条城金地院を経て豊国神社に移されています。

豊国神社の唐門

豊国神社の唐門

豊国神社を再建したのは明治政府で、別格官幣社として復興しています。

ところで、なぜ、明治政府は、豊国神社を再建したのでしょうか。

岩波新書の『京都の歴史を歩く』では、朝廷への功臣でありなおかつ海外出兵の先達である秀吉を顕彰すると同時に、徳川幕府の権威や東照宮の地位を低下させる意図があったと説明されています。

この時代は、日本が海外に領土を拡張しようとしていた時期だったので、明治政府がそれを喧伝するために豊国神社を再建したのでしょうね。

明治27年に日清戦争が起こり、日本が勝利していますが、その4年後の明治30年には、豊国神社の南側に帝国京都博物館(現在の京都国立博物館)が開館し、翌31年に同博物館で「豊臣時代品展」が催されています。

秀吉と日清戦争のイメージとを重ね合わせた報道も行われていたようです。

この年は、豊公三百年祭の年にあたっており、豊国廟も再建されています。

豊国廟

豊国廟

そして、荒廃していた秀吉のお墓も阿弥陀ヶ峰の頂上に再建されました。

豊臣秀吉の廟所

豊臣秀吉の廟所

明治になって豊国神社が再建されたのは、その時代の雰囲気が強く影響していたのでしょうね。

政治的な理由で荒廃し、政治的な理由で再建された豊国神社。

今は、そのような動乱を感じさせないほど、境内は静かです。

なお、豊国神社と豊国廟の詳細については以下のページを参考にしてみてください。

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