京都市中京区の京都市役所がある辺りは、上本能寺前町という地名になっています。
その名からもわかるようにここは本能寺があった場所です。
本能寺と言えば、織田信長が明智光秀に討たれた本能寺の変が有名ですが、事件現場は、上本能寺前町から南西の四条西洞院の辺りです。
その後、再建が進み、天正17年(1589年)に豊臣秀吉の命により寺町御池に移転しています。
寺町通押小路下るに設置された題目碑
現在の本能寺は、寺町御池の南側のアーケード街の一角に境内を有するだけですが、本能寺の変からの再建後は、上本能寺前町も含めた広大な寺域を有していました。
寺町通に面する本能寺の表門から、北に約200メートル歩き、押小路通と交差する付近までやって来ると、右手に京都市役所が建っています。
そして、左手には、ひっそりと「南無妙法蓮華経」と刻まれた題目碑が立っています。
これは、本能寺によって建立された石碑で、かつての本能寺がこの辺りまであったことを示しています。
豊臣秀吉は、京都の改造に当たり、寺町通の東側に寺院を並べ、町の防衛の役割を担わせました。
寺町通の東には鴨川が北から南に流れていますから、鴨川と寺院の建物を京都の防衛に活かしたんですね。
さらに豊臣秀吉は、京都の周囲を御土居で囲み、鉄壁の守りを築きました。
題目碑の後ろにある説明書によると、寺町寺院の門前には、多くの参拝客が訪れるようになったことから、次第に商店が増え門前町が形成されていったとのこと。
そうして、本能寺は、北は押小路通、南は綾小路通にいたる広大な寺地に本堂、開山堂、大書院、客殿の他、子院二十七院、多宝塔、祖師堂、総門と七堂伽藍を誇ったそうです。
その威容は、洛中洛外図(上杉神社本、岡山美術館本)にも見ることができるとのことですから、本能寺の変の再建後の本能寺の繁栄がわかります。
しかし、現在の本能寺は、かつての寺域の南半分だけとなっています。
これは、元治元年(1864年)の蛤御門(はまぐりごもん)の変で、本能寺が焼失し、明治5年(1872年)にそれまでの寺地が、官有地として没収となったからです。
没収された上本能寺前町には、京都市役所が建設され、今にいたっています。
もしも、本能寺が今も上本能寺前町まで境内を有していたら、その真ん中を御池通が通っていたかもしれませんね。
そうすると、本能寺は、御池通によって境内を分断され、北と南に2つの境内を持つことになっていたでしょう。
あるいは、御池通の東端が本能寺までになっていた可能性もあります。
本能寺に参拝した時は、ぜひ、上本能寺前町にある題目碑もご覧になってください。