11月上旬。
京都市中京区の本能寺に参拝した後、南東に約5分歩き、瑞泉寺にも参拝しました。
瑞泉寺は、木屋町三条にひっそりと建つお寺です。
当寺がある地は、豊臣秀次とゆかりがあり、歴史的にも重要な場所です。
色づく梅の葉
瑞泉寺には、地下鉄の三条京阪駅、または、京阪電車の三条駅から西に約5分歩くと到着します。
木屋町通に面した山門の前には、ここが、豊臣秀次の墓所であることを示す石柱が立っています。
山門をくぐって境内に入ります。
境内には人がいません。
木屋町通はたくさんのお店があり、人通りも多いのですが、瑞泉寺に参拝する人は少なめです。
まずは本堂にお参りをしましょう。
瑞泉寺がある辺りまで、かつては鴨川でした。
文禄4年(1595年)に豊臣秀吉によって甥の秀次一族が処刑されましたが、その場所に現在の瑞泉寺が建っています。
遺体は、河原に設けられた大きな穴に入れられ、その上には四角垂に土石を積んだ塚が築かれ、殺生塚や畜生塚と呼ばれるようになりました。
江戸時代に入ると、豪商の角倉了以(すみのくらりょうい)によって瑞泉寺の前を流れる高瀬川の開削が行われます。
その時、角倉了以は、荒れ果てた殺生塚に気づき、慶長16年(1611年)に瑞泉寺を創建し、豊臣秀次一族を供養しました。
本堂の西側には、豊臣秀次のお墓があります。
そして、お墓の正面には、宝篋印塔(ほうきょういんとう)があります。
宝篋印塔に刻まれた経文の最後に「伏して祈る!願わくば此の塔の功徳を以って、この世の全ての人々が苦しみから平等に救われますように!」とあることから、豊臣秀次一族の供養のために建立されたものではないかと考えられています。
豊臣秀次のお墓の北側には、地蔵堂が建っています。
堂内の中央に祀られている地蔵菩薩は、秀次一族が処刑される際に貞安上人が、刑場の一隅に運び込み、処刑されている子女たちに引導を授け続けたと伝わる像です。
貞安上人は、織田信長の帰依を受けたお坊さんで、安土宗論で法華宗の僧侶たちと問答したことで知られており、また、東山区の大雲院や伏見区の勝念寺を創建したことでも知られています。
信長の家臣であった秀吉によるむごい処刑を目の当たりにしたのは、何かの因縁でしょうか。
堂内の脇段には、秀次一族の女性や子供の像を写した人形が多数安置されています。
境内では、まだ萩の花が咲いていました。
梅の木は、紅葉し始めており、晩秋らしい姿になっていました。
梅の木の近くには、休憩所があり、瑞泉寺が紹介された新聞の切り抜きや冊子などがあります。
瑞泉寺の縁起について記した紙が置かれていたので、1部いただくことに。
そこには、豊臣秀次の家臣で、後陽成天皇の脈をとるほど有名だった医師吉田宗恂(よしだそうじゅん)が、角倉了以の弟であることが記されていました。
吉田宗恂は、慶長15年に亡くなっており、その1年後に瑞泉寺が創建されていることから、両者の間に何か関係がありそうですが、記録には残っていないそうです。
そろそろ瑞泉寺から出ましょう。
当寺に参拝すると、いつも胸が痛くなります。
なお、瑞泉寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。