江戸時代は京都の玄関だった三条大橋

現在の京都の玄関口となっているのは、下京区の京都駅です。

国内だけでなく、海外からも京都にお越しになる人が増えていますが、京都に入る場合、ほとんどの方が京都駅を利用します。

ところで、京都駅は、昔から京都の玄関口だったのでしょうか。

実は、江戸時代には、京都駅から3kmほど北にある三条大橋が京都の玄関口でした。

安土桃山時代に鴨川に架かる

鴨川には、四条大橋や五条大橋など複数の橋が架かっています。

四条大橋は八坂神社、五条大橋は清水寺への参詣のために使われており、古くから現在地に橋が架かっていました。

でも、三条河原には、常に橋が架かっていたわけではありません。

ここに本格的な橋が架かるようになったのは、安土桃山時代の天正17年(1589年)です。

豊臣秀吉が、小田原の北条氏を討つために五奉行の増田長盛に命じて造らせました。

三条大橋は、欄干は木製ですが、日本で最初の石柱橋です。

石柱は63本使われ、高欄は10間に分けて擬宝珠(ぎぼし)が飾られました。

三条大橋

三条大橋

三条大橋は、その後、江戸幕府が管轄するようになり、東海道の西の出発地点となります。

江戸時代には、関東と京都を結ぶ東海道の重要性が増し、三条大橋は、その東にある粟田口へ行く要衝として大事な役割を担っていました。

たびたび洪水で流されることがありましたが、幕府が管轄する公儀橋であったため、すぐに架け替えられたり、修復されたりして、橋が維持されてきました。

宝永8年(1711年)に修復されたときには、その規模は、長さ約106メートル、幅7メートルもあり、現在の三条大橋の長さ73メートルよりも長かったようです。

幕末には様々な事件が起こった

三条大橋の西側には、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』に登場する弥二さんと喜多さんの像があります。

弥二さん喜多さんの像

弥二さん喜多さんの像

作中で、2人は、江戸から伊勢参りに出かけ、さらに京都と大坂にも足を延ばしており、京都では、三条大橋近くの宿に泊まっていますね。

ちなみに弥二さんと喜多さんの像は、旅行安全で知られる西院春日神社の還来神社(もどろきじんじゃ)で祈祷を受けているそうです。

また、三条大橋は、江戸時代の作品に登場するだけでなく、幕末には、様々な事件が起こっています。

元治元年(1864年)の池田屋事件は、三条大橋から少し西に歩いた場所が現場であり、その時の斬り合いで、三条大橋の擬宝珠に刀傷がつきました。

その前年には、勤王の志士によって、等持院の足利将軍の首が三条河原にさらされています。

新撰組局長の近藤勇の首がさらされたのも三条河原ですね。

首がさらされるというのは、やはり、三条大橋が人の行き来が多く、大勢の目につきやすいことが理由だったのかもしれません。

京都の人はもちろんのこと、京都以外からやってきた人にも見られますからね。

近代に入ると、日本初の駅伝が、京都の三条大橋と東京の日本橋の間で行われています。

三条大橋が、駅伝のスタート地点に選ばれたのは、やはり、ここが京都の玄関口だと認識されていたからなのでしょうね。

今でも、三条大橋の欄干は木造のままで、江戸時代の雰囲気を残しています。

もしも、東海道線が今の京都駅ではなく、三条河原の近くに駅を造っていたら、三条大橋の上を新幹線が走っていたかもしれません。

そうすると、三条大橋は今とは全く違った姿になっていたことでしょう。

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