朝廷が南朝と北朝に分かれて争った南北朝時代は、多くの犠牲者を出しました。
南朝と対抗するために光明天皇を擁立して北朝とした足利尊氏とその弟の直義は、元弘の変から南北朝の争乱によって犠牲になった人々の霊を慰めることを考えます。
その方法は、奈良時代に聖武天皇が勅願により、全国に国分寺(金光明四天王護国寺)と国分尼寺(法華滅罪寺)を設置したのをならい、全国に安国寺と利生塔(りしょうとう)を設置するというものでした。
山城国には新たな利生塔は建てられなかった
全国に安国寺と利生塔を設置するためには、莫大な資金が必要となります。
しかし、室町幕府には、それだけの資金を用意する財政的余裕がなかったことから、安国寺と利生塔の全てを新たに建立することはできませんでした。
そこで、安国寺や利生塔の一部は、すでに存在していたお寺や塔をあてることにします。
室町幕府があった山城国では、四条大宮付近に北禅寺を創建して安国寺としましたが、利生塔は新たに建てられませんでした。
そこで、東山にあった法観寺の五重塔、通称八坂の塔を利生塔にあてることにしました。
法観寺は飛鳥時代に聖徳太子が創建したと伝えられています。
京都市内には五重塔が4つありますが、法観寺の八坂の塔は、それら4つの五重塔の中で最初に創建された五重塔です。
ただし、現在の五重塔は、永享12年(1440年)に室町幕府6代将軍の足利義教(あしかがよしのり)が再建したものなので、京都市内で現存する最古の五重塔は醍醐寺のものになります。
でも、塔の心礎は飛鳥時代のものが、そのまま使われています。
本尊の内部には、大日、釈迦、阿閦(あしゅく)、宝生(ほうしょう)、弥陀の五智如来が本尊として祀られていますよ。
室町幕府の大事業として行われた安国寺と利生塔の設置でしたが、幕府の力が弱まると衰退していきました。
今では、室町幕府が安国寺と利生塔を全国に設置したことは、ほとんど忘れられており、東山の八坂の塔が利生塔にあてられたことを知っている人も少ないでしょう。
応仁の乱の兵火でも焼失することなく、今も東山の象徴的な存在として建ち続ける八坂の塔。
この五重塔がなかったら、今ほどは東山に古都の風情を感じられないでしょうね。
八坂の塔は、様々な角度から眺めることができるので、東山観光の際は、いろんな場所から鑑賞してください。
なお、法観寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。