京都市上京区の京都御所は、平安京ができてから、ずっと同じ場所にあり続けているわけではありません。
平安京の大内裏(だいだいり)は、現在の京都御所よりも西の二条城が建つ辺りにあったのですが、何度も火災に遭い再建されなくなりました。
京都御所が現在地に定まったのは元弘元年(1331年)のことで、仮の内裏とされていた土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)で光厳天皇が即位して以降、明治2年(1869年)まで、天皇の住いとして使用されてきました。
したがって、現在の京都御所は平安時代の大内裏とは違います。
でも、現在の京都御所は、平安時代の印象を残しています。
天明の大火で焼失
現在の京都御所もまた、何度も火災に遭い焼失しています。
天明8年(1788年)に四条大橋の南東から出火し、京都の街の大部分を焼いた天明の大火では、京都御所も大きな被害を受けます。
でも、この後、寛政元年(1789年)に老中の松平定信が再建工事に着工し、翌年8月に完成しています。
この時、松平定信は、裏松固禅(うらまつこぜん)を起用して、京都御所の修復工事を行っています。
宝暦事件で失脚
裏松固禅は、烏丸光栄の末子として誕生し、本名を光世といいます。
後に光世は裏松家に養子に出され、裏松光世となりました。
光世が左少弁だった25歳の時、宝暦事件が起こります。
宝暦事件(1758年)は、尊王思想を持つ竹内式部(たけのうちしきぶ)の影響を受けた公家たちが、幕府が天皇を軽視し、摂関家が朝廷を支配している現状を憂い、桃園天皇に神書を進講して幕府に処分された事件です。
事件の中心人物であった竹内式部は京都を追放され、彼と親交のあった藤井右門は逃亡したものの、門下生であった公家たちは処分されます。
その中には、裏松光世もいました。
光世は、出仕を許されず出世の道を断たれたことから出家し、名を固禅に改めます。
その後、固禅は、平安京、大内裏、内裏の研究に没頭し、「大内裏図考証」を完成させます。
そんな時に発生したのが、天明の大火でした。
松平定信は、内裏を平安京当時の姿に復元しようと思っていましたが、資料が全くないので、平安時代の内裏がどのようなものであったのかがわかりません。
そこで、松平定信が目を付けたのが裏松固禅の研究成果でした。
固禅は自らの研究成果を松平定信に提供し、定信も固禅の知識を活かして内裏を平安時代の姿に復元したのです。
しかし、この時復元された内裏も嘉永7年(1854年)に火災で全焼します。
でも、松平定信の時に設計図が完成していたので、老中阿部正弘を総奉行として寛政の時と同じ形式で内裏の再建が行われました。
現在の京都御所は、阿部正弘によって再建されたものであり、その形式は平安時代の内裏と同じものと考えられます。
もしも、宝暦事件で裏松光世が処罰を受けていなければ、現在の京都御所は違った姿になっていたでしょう。
左近の桜と右近の橘の由来
現在の京都御所に建つ紫宸殿の右前には左近の桜、左前には右近の橘が植えられています。
ところで、左近や右近とはいったいなんなのでしょうか。
これは、紫宸殿(ししんでん)と南庭を囲む回廊を守る左近衛府(このえふ)と右近衛府の陣のことです。
左近衛府の陣は、紫宸殿の東、日華門の北宣陽殿の西廂にありました。
一方の右近衛府の陣は、紫宸殿の西、月華門の北校書殿(きょうしょでん)の東廂にありました。
そのため、左近衛府の陣近くに植えられていた桜は左近の桜、右近衛府の陣近くに植えられていた橘は右近の橘と呼ばれるようになりました。
かつては、桜ではなく梅が植えられていたのですが、承和年間(834-848年)に枯死し、桜に植え替えられました。
現在も国内外から多くの旅行者や観光客の方が訪れる京都御所。
もしも、江戸時代に現在の姿に再建されていなければ、京都御所を訪れた人々は、平安時代の雰囲気を感じることはできなかったでしょうね。
なお、京都御所の詳細については以下のページを参考にしてみてください。