10月26日に行われた時代祭を烏丸御池で観覧し、途中から北の烏丸丸太町に向かって歩きながら行列を見ました。
吉野時代の行列までが過ぎ、次にやって来たのは鎌倉時代の行列です。
城南やぶさめ列
鎌倉時代ののぼりを持った人が先頭を進みます。
鎌倉時代に登場する行列は、城南やぶさめ列だけです。
平安時代後期から、上皇や法皇が政治を動かす院政が行われました。
その舞台となったのが、伏見区の城南宮が建つ辺りに造営された鳥羽離宮でした。
院政の舞台は必ずしも鳥羽離宮ではありませんでしたが、白河上皇や鳥羽上皇は鳥羽離宮と深い関係を持っていました。
しかし、平清盛が政治に関与するようになってから武士の発言力が強まり、やがて源頼朝が鎌倉幕府を開くと政治の中心は天皇や上皇から武士に移りました。
この状況に不満を持ち、朝廷の威信を回復しようと考えたのが後鳥羽上皇です。
後鳥羽上皇は鎌倉幕府を転覆するために諸国から武士を集めます。
もちろん、鳥羽に武士をただ集めるだけだと、幕府にその意図を知られてしまいますから、後鳥羽上皇は流鏑馬(やぶさめ)の腕を競わせることを口実に1,700人以上の武士を集めました。
時代祭の城南やぶさめ列は、その様子を再現したものです。
流鏑馬は、馬に乗りながら3つの的に矢を放ちます。
その的を持った人が3人1組になって進みます。
的持の後ろからは、馬に乗った射手が進みます。
射手は、綾藺笠(あやいがさ)を被り、直垂(ひたたれ)を着けています。
左手には射籠手(いごて)をつけ、いかにも、これから流鏑馬を始めようとしているように見えます。
後鳥羽上皇の鎌倉幕府転覆計画は、鎌倉幕府に気づかれ、北条泰時に鎮圧されました。
そして、後鳥羽上皇は隠岐に配流となります。
かつて、崇徳上皇が流罪になったことはありますが、それは天皇の命によるものでした。
武士は、そもそも朝廷の臣下ですが、その臣下が上皇を流罪にしたのは、後鳥羽上皇が初めてです。
後鳥羽上皇の鎌倉幕府転覆計画は承久の乱と呼ばれ、この時以降、武家政権が確固となりました。
城南やぶさめ列は、信号が青に変わるのを待ちます。
時代祭では、車道の交通規制が行われますが、行列が止まらずに歩き続けられるわけではありません。
車を走らせたり、止めたりをお巡りさんが指示する中、時代祭の行列は平安神宮に向かって進んでいきます。
この後は、藤原時代の行列がやってきます。