京都駅を烏丸口から出て、西に歩くと郵便局があります。
郵便局と京都駅に挟まれた道をさらに西に進み、堀川通の手前で北に向きを変え少し歩いた先に不動堂明王院が建っています。
お堂がぽつんとひとつだけ建っている不動堂明王院は、地域の住民が建てた小堂のように見えますが、実は長い歴史を持つ寺院なのです。
空海ゆかりの霊石不動堂
不動堂明王院には、京都駅から徒歩約5分で到着します。
こちらが不動堂明王院のお堂です。
周囲には背の高いビルが建ち、ここだけ古いお寺があるのに違和感を感じます。
お寺の説明書があるので読んでみましょう。
不動堂明王院の創建は、弘仁14年(823年)です。
弘法大師空海が嵯峨天皇の帰依を受けて東寺を賜った際、その東北の鬼門に当たる当地に法城守護のため1体の不動尊を祀ったのが始まりと伝えられています。
この不動尊は、空海がたまたま当地で発見した1基の妙霊な石に彫り刻んだもので霊石不動と呼ばれています。
しかし、この霊石不動を見ることはできません。
空海は、霊石不動が凡夫の目に触れると穢れると考え、石棺に納め、これを地中の井戸深くに安置したのです。
寛平11年(899年)、仏道に深く帰依していた宇多天皇が法皇となったとき、当地を含む西洞院に東西2町(約220メートル)、南北に4町の大規模の東七条御所を造営しました。
この東七条御所は、亭子院(ていじのいん)とも呼ばれました。
亭子院造営にあたり、宇多天皇は、ここに霊石不動の安置された井戸があることを知り、人に命じて取り出させようとしました。
しかし、井戸の石を見た者は、ことごとく目を病み恐れをなして、結局、霊石不動を取り出すことはできませんでした。
そのため、宇多法皇は勅命により井戸を封じ、以後何人も見ることができないように大規模な堂宇を営み、これに霊石不動明王の号を賜り、日夜念持仏として尊崇したそうです。
室町時代になると、応仁の乱(1467年)で亭子院はじめ堂宇は焼失しましたが、霊石不動は多くの信仰をあつめ、篤志家たちの手によって堂宇が再建されました。
その後、江戸時代の明和元年(1764年)に本堂の改築修理が行われ、現在にいたっています。
霊石不動明王は現在も井戸深くに封じられているため、本堂に御前立として不動尊立像を安置しており、参拝時はこのお不動さまを拝むことになります。
ちなみに霊石不動明王は、高野山波切不動尊と成田山不動尊と並んで、空海作の三体不動尊と呼ばれています。
お堂には、「誠 不動堂」と書かれた提灯がかかっています。
不動堂明王院が建つ辺りは、幕末に新撰組の洛中最後の屯所が置かれた場所です。
提灯に「まぼろしの屯所」と書かれているように新撰組の洛中最後の屯所は、この辺りにあったという程度でしかわかっていないのでしょう。
なお、新撰組最後の屯所については以下の過去記事をご覧になってください。
道祖神社
不動堂明王院の北隣には、道祖神社も建っています。
石造りの鳥居の脇には、道祖神と刻まれた大きな石が置かれ、その中央に平安装束をまとった男女が手を取り合っている像が彫り込まれています。
道祖神は、縁結びの神さまとして知られているので、当社にお参りをすると良縁に恵まれそうです。
鳥居をくぐった先に石段があり、その上に本殿が建っているのでお参りをしましょう。
道祖神は道案内の神さまでもあるので、交通安全のご利益も授けてくれますよ。
道祖神社は、亭子院の鎮守社として創建されたと伝えられています。
天正年間に(1573-1592年)今の町内に移され、明治時代(1868-1912年)に現在地に定まりました。
本殿の右側には、交通安全の神と記された提灯がかかっています。
そして、左側には、えんむすびの神と記された提灯もかかっています。
境内には、末社がいくつか並んでいます。
末社と石段の間の狭い空間では、牛が窮屈そうにしていました。
本殿にお参りを済ませたので、道祖神社から出ることに。
何気に足元を見ると、小さな石にこれまた男女が肩を寄せ合う像が彫られていましたよ。
不動堂明王院も道祖神社も、京都駅からとても近いので、バスや電車の待ち時間がある場合にでもお参りしてください。