慶応4年(1868年)1月3日に始まった鳥羽伏見の戦いは、薩長を中心とする新政府軍が錦の御旗を掲げたことで、旧幕府軍は混乱し潰走することになりました。
会津藩や新撰組などの旧幕府軍は、南に退き、淀城に入って抗戦することを決定しましたが、淀藩が旧幕府軍の入城を拒んだため、八幡市の男山や橋本まで撤退することにしました。
そして、鳥羽伏見と淀で新政府軍に敗れた旧幕府軍の負傷者は、淀の長円寺に運ばれ治療を受けました。
野戦病院跡を示す石碑
京阪電車の淀駅から南に15分ほど歩くと、長円寺の山門の前に到着します。
山門の前には、榎本武揚(えのもとたけあき)が揮毫(きごう)した「戊辰之役東軍戦死者之碑」が立っています。
鳥羽伏見の戦いで、新撰組を指揮したのは副長の土方歳三(ひじかたとしぞう)でした。
局長の近藤勇(こんどういさみ)は、新撰組を脱走した御陵衛士(ごりょうえじ)の残党によって狙撃され肩を負傷していたので参戦していません。
1月5日に淀千両松で新政府軍に敗退した新撰組は、負傷者と戦死者を長円寺に運びます。
この時、新撰組は、隊士の3分の1が戦死しています。
池田屋事件で活躍した山崎烝(やまざきすすむ)もこの時の負傷が元で後に亡くなり、新撰組結成前からの盟友であった井上源三郎も戦死しました。
鳥羽伏見の戦いの後、新撰組は大坂城まで退却し、その後、江戸に戻って甲陽鎮撫隊に名を変え甲府城を攻めましたが攻略できませんでした。
そして、新撰組は解散し、近藤勇も捕えられて処刑されました。
残った土方歳三は、会津に転戦した後、榎本武揚とともに箱館五稜郭で戦い戦死しています。
榎本武揚は、土方歳三から長円寺が旧幕府軍の野戦病院であったことを聞かされており、明治40年(1907年)に彼が書いた戊辰之役東軍戦死者之碑が建立されました。
山門の近くには、「鳥羽伏見の戦い幕府軍野戦病院の地」と刻まれた石碑も置かれています。
足立観音
山門を入った左手には、観音堂が建っています。
観音堂には、足腰治癒、健康祈願のご利益があると伝えられている足立観音が祀られています。
新政府軍が、旧幕府軍の野戦病院である長円寺を攻撃しなかった理由は、この足立観音にあると伝えられています。
鳥羽伏見の戦いの5年前である文久3年(1863年)に八月十八日の政変が起こりました。
京都で権勢を振るっていた長州藩は、この政変で京都政界から追い落とされ、7人の公卿とともに長州へと引き上げました。
途中、長円寺に立ち寄り、八幡大菩薩の化身である足立観音にお参りをし、男山と大山崎に建つ八幡神社に集合したと伝えられています。
そのため、新政府軍が、その足立観音を祀る長円寺を攻撃するのは恩に背くことになるとして、攻撃しなかったと言われています。
閻魔王
山門を入った右手には、閻魔堂があります。
閻魔堂の中に安置されている閻魔王は、旧幕府軍や新撰組もお参りしたとされています。
新政府軍が、長円寺を攻撃しなかったのには、閻魔王の前で争って罪を犯すことはできなかったからだとも言われています。
長円寺の前には、淀水路があり、毎年3月になると河津桜の並木が満開になります。
淀水路の河津桜を見た後は、ぜひ長円寺にもお参りをしてください。