京都市中京区に二条城が建っています。
二条城は、徳川家康が慶長8年(1603年)に築城し、京都御所の守護と将軍上洛の際の宿泊所として使われていました。
この二条城は、拝観することが可能で、その入り口となっているのは堀川通に面した東大手門です。
豪壮な櫓門(やぐらもん)は、まさに城の防衛のための建造物といった感じで威圧感があります。
わずか5日間のために高麗門に造り替え
二条城の最寄り駅は、地下鉄二条城前駅です。
駅を出て、北に3分ほど歩けば、東大手門の前に到着します。
重層の東大手門は、2階部分の床に穴が空いていて、そこから石を落とせる仕組みになっているそうです。
東大手門から二条城に攻め入ろうとしても、ここで足止めされるわけですね。
二条城には、かつて城内の中央に本丸があったのですが、3代将軍徳川家光が寛永元年(1624年)から寛永3年まで3年をかけて城の大改修を行った際に本丸を南西部に移し、天守閣も新造しました。
そして、それまで本丸として使われていた城の東半分には二の丸御殿が造営されます。
徳川家光が、二条城を大改修したのは、寛永3年9月6日から10日まで後水尾天皇(ごみずのおてんのう)の行幸が計画されていたからです。
天皇が将軍の居宅に行幸することは、幕府の威信を誇示することになりますから、徳川政権が盤石であることを広く知らしめるのに効果的だったはずです。
後水尾天皇が二条城に行幸する時、東大手門をくぐることになります。
戦闘のための仕掛けがある櫓門の下を天皇がくぐるのは物騒です。
何と言っても、2階から天皇を見下ろすのは不敬です。
そこで、二条城の大改修の際、東大手門は櫓門から単層の高麗門に造り替えられました。
しかし、現在の二条城は、櫓門です。
そう、徳川家光は、後水尾天皇の行幸のためだけに東大手門を高麗門に造り替えたのです。
その後は、再び櫓門を建てました。
たった5日間のためだけに費用をかけて東大手門を二度も造り替えたのですから、徳川幕府の力を誰もが認めるようになったことでしょう。
二の丸庭園にも行幸御殿が建てられた
二の丸御殿の南西には、池泉回遊式庭園の二の丸庭園が配されています。
二の丸庭園は特に二の丸御殿内の大広間から鑑賞することを想定して造営されたそうです。
この二の丸庭園も、後水尾天皇の行幸に合わせて改修されたようです。
天皇の滞在のため、二の丸庭園の南側に行幸御殿が建築され、その際、二の丸庭園も小堀遠州によって一部改修が加えられ、今日にいたっていると考えられています。
庭園南部の石組には変更を加えた形跡も見られるのだとか。
わずか5日間の天皇行幸のために二条城を大改造したのですから、当時は、天皇行幸が社会に与える影響が極めて大きかったのでしょう。
天下を徳川が握ったことを示すには、これだけのことをする必要があったんですね。
なお、二条城の詳細については以下のページを参考にしてみてください。