2月中旬に京都市伏見区にある明治天皇伏見桃山陵(めいじてんのうふしみのももやまのみささぎ)に参拝した後、近くにある桓武天皇柏原陵(かんむてんのうかしわばらのみささぎ)にも参拝してきました。
桓武天皇は、延暦13年(794年)に都を京都に遷した天皇ですね。
以後、明治元年(1868年)の東京遷都まで千年以上も京都は日本の首都でした。
東京に遷都した明治天皇の陵が、京都に遷都した桓武天皇の陵の近くにあることには、何か理由があるのでしょうかね。
静寂の陵
桓武天皇柏原陵は、近鉄丹波橋駅または京阪電車の丹波橋駅から東に15分ほど歩いた辺りにあります。
明治天皇伏見桃山陵からだと、北に徒歩約5分です。
明治天皇の陵の参道の途中に北へと続く参道が現れます。
この参道の入り口に「桓武天皇御陵参道」と刻まれた石碑があるので、ここから北に歩けば桓武天皇の陵へ行けます。
木々に囲まれた参道には誰もいません。
とても静かであります。
冬ですから京都を訪れる観光客も少ないはず。
途中で道路が現れますが、ここを横切ってさらに北に進みます。
ちなみにこの道路を東に行くと伏見桃山城がありますよ。
道路から100メートルほど進むと、陵の入り口に到着します。
そして、陵の前にやってきました。
都を京都に遷した桓武天皇の陵だけあって大きいですね。
明治天皇の陵ほどは大きくないですが、歴代天皇の陵の中では大きい部類に入るはずです。
平安遷都の10年前に平城京から長岡京に遷都されました。
わずか10年で都を遷したことには、長岡京内を流れる桂川が2度洪水したこと、朝廷の蝦夷征伐の失敗による政治の建て直しのためなどと言われています。
これらの理由が重なって都を遷すことになったのでしょうが、直接の引き金は、長岡京の造都責任者であった藤原種継が暗殺されたことにあるようです。
捜査の結果、大伴継人ら十数人が捕縛されます。
さらに桓武天皇の弟であった早良親王(さわらしんのう)や大伴家持(おおとものやかもち)も計画に加わっていたとされ、流罪となりました。
早良親王は無実を訴えるために絶食し続け、最終的に餓死してしまいます。
桓武天皇は、早良親王の怨霊から逃れるため、すぐに遷都を決定し、長岡京から逃げるように平安京に遷ったそうです。
新たな都となった平安京は、北に船岡山、東に鴨川、南に巨椋池(おぐらいけ)、西に山陰道がある四神相応の地であり、早良親王の怨霊から身を守るのに絶好の場所だったと言えるでしょう。
桓武天皇が平安遷都を決定した理由は、ここにあったのかもしれませんね。
桓武天皇柏原陵と長岡京との間には桂川が流れているので、早良親王の怨霊もここまではやってこないでしょう。
また、早良親王の怨霊は京都市左京区の崇道神社に祀られて御霊(ごりょう)となったので、今は京都を守ってくれているはずです。
きっと桓武天皇も心穏やかに柏原陵に眠っていることでしょう。
静寂の陵の上を白い雲がゆっくりと流れていました。
この後は、伏見桃山城に梅を見に行きました。